「岸牧子、語る。」神奈川県知事候補 岸牧子 10000字インタビュー
私ができることはなんでもやろう
―――よろしくお願いします。岸牧子さんという「人物」に迫るインタビューをしたいと思います。今回、神奈川県知事選挙に立候補し、政治家を目指す決意をあらためてお聞きしたいです。
よろしくお願いします。私は「9条の会」や「よこすか・みうら市民連合」の活動をしてきました。いま、憲法9条を改憲するための国民投票が、この春の通常国会で発議されるかどうかという一番怖い時期にきています。世界では核兵器禁止条約が採択されたり、朝鮮半島も平和と非核化などが進んでいます。まずなにより、地球で人間がどうしたら住み続けるという意識に変わってきてるのに、日本だけが憲法9条を変えて、戦争に突き進もうとしています。ですから、通常国会の発議への危機感が根底にありました。そのために「私ができることは何でもやろう」と思いました。
―――「私」が動かなきゃいけないという強い動機があったんですね。
今までもずっと改憲を食い止めるための運動をやってきたのですが、 さらにもう一歩を踏み出したかった。「りゅうちぇる」さんや「ローラ」さんが辺野古へ基地をつくることに反対の署名に対して、SNSで意思表示をしたでしょう?芸能界では、政治的な行動って一歩間違うと芸能生命を絶たれてしまう。でも、彼らは声を上げた。
また、雑誌『通販生活』では表紙に国民投票を載せたり、宝島社の全面広告であったり、出版社によっては潰れてしまう可能性のある取組を見たときにも、一歩を踏み出すタイミングだな…と思っていたんです。そんな時に、県知事選挙出馬の要請がきたんです。
私はこれまで、横須賀市の中でしか動いてこなかったから、「県」というところで凄くたじろいだ。けれども、「何でもやろう」と思った私の意志はそんなに弱いものなのか。私にとって、一歩を踏み出すってことは何か。ということを深く考えさせられました。
皆さんが考える、知事選挙に出る人物像みたいなものがあるでしょう。たとえば…県議会議員をやってきた経験があったり、学者や弁護士のような「権威」の人が出馬するイメージ。私自身もそんな人物像があったので、そこを乗り超えて、ただの主婦が出馬するというのは、すごく勇気が必要でした。
さらに背中を押したのは、沖縄の基地の問題です。私は、辺野古米軍基地移設に反対する運動をずっと注視してきました。玉城デニーさんが翁長雄志さんの意志を継いで沖縄県知事選挙に出馬され、勝利し、辺野古移設阻止の民意が反映されました。私は、横須賀で原子力空母の母港化問題に熱心でした。横須賀での原子力空母の母港化に対するたたかいは、市長が決まって言う「原子力空母の母港化の問題は国の専管事項」という答弁に対する闘いです。しかし、その地域に一番影響があるのだから、その地域の問題なんだと証明したのが沖縄の運動でした。
「誰一人とりのこさない」を根っこに
―――「国の専管事項」というのは、原子力空母の母港化については国の政策だから議論や賛否の俎上にすら乗せないということ。 (※国の専管事項=国が一手に管轄すること)
歴代市長は「市町村が口を出すことじゃない」っていう風に逃げてきた、というのかな。そこに、私が横須賀市長選挙に出た大きな理由もそこにあります。日本国憲法でも国と地方自治体は「対等」ということは認められています。
――――ここはとても重要なポイントです。よく「国の問題を県で取り上げるな」という批判がありますが、それに対する「国と県はちゃんと繋がっている」という岸さんのレスポンスです。
「国の専管事項」という表現や、「国政」のことに地方自治体が口を出すなというのはおかしい。国は、自分たちにとって都合のよい知事を押し付けている。国にとって「要の街」ってありますよね。沖縄県や神奈川県、横須賀市のように、政府が、米軍との間で絶対に抑えておきたい自治体です。原発を設置している自治体もそうです。政府もコントロールするために、知事を取りたいでしょう。
しかし、それは絶対に止めなきゃいけない。住民のことを考えたら、玉城デニーさんのように、知事こそがはっきりと国に反対の意見を言わなければいけない。
―――今回、岸さんには「誰一人とりのこさない」というキャッチコピーがあります。あれは玉城デニーさんもおっしゃっていますよね?
はい。デニーさんの選挙が終わった勝利会見の記事を読んだときに、このキャッチコピーがありました。「誰一人とりのこさない」を実現しようとしたら「戦争」なんてありえないし、住民が抱えている問題を一つ一つ解消していかなければいけない。とても大事なメッセージなので、切り抜いて手帳に入れて持っているくらい(笑)その後、国連の掲げる「持続的な開発目標(SDG's)」の言葉なんだと知りました。
岸牧子を知る
―――素晴らしい決意表明をありがとうございます。岸さんは私たちと同じ目線を持つ人です。権力もお金もない同じ一市民が、「なんでもやろう」と立ち上がった。岸さんのパーソナリティーやキャラクターをもっと知りたいです。生い立ちから教えてください。
生まれも育ちも湯河原です。実家は今もあります。
―――湯河原という町はどんなところですか?
三浦や横須賀とも似ていますが、海があって、山があって、お水も魚も美味しくて、人のつながりがすごくあるところです。親の家業はミカン農家です。夏は海の家をやっています。
―――その土地で自営をなさってるんですね。
サーフィンをやってる人だと、私の実家の海の家を知っていたりします(笑)83歳の母は現役で海の家に出ています。夜になると帰ってきてお金の勘定して釣銭を揃える(笑)私は長女で、三人兄弟で一番下の弟は自営業の水道屋なんですが、夏は母と海の家を営業しています。真ん中の弟もとても応援してくれて、どんどん町の人を紹介してくれます(笑)
―――出身大学は武蔵野美術大学ですが、美術に興味がもともとあったんですか?大学に入って印象的なエピソードなどはありますか?
昔からモノをつくるのが好きだったんです。東京で初めての一人暮らしでした。でも、今思うとあれだけのお金と時間があったら世界でも自由に周ってたほうがよかったかな…なんて(笑)金工を学んでいたんですけどね。デザインで食べていけるだけの、才能はないなと思って。周りの同級生はみんなすごい方たちだったの。
―――卒業後は中学校の美術教師もご経験されています。
美術教師は産休補助で小田原の中学校に3ヶ月くらいいました。タイミングがよく修学旅行にも同行でき、とても楽しかった(笑)正規雇用は仙石原の中学に採用されました。でも、合わなかった。「一列に並べ」って言われると「なんで並ばなくちゃいけないのかな」とか、「これ別にそうじゃなくてもいいんじゃないかな」とか、疑問に思うことのほうが多くなって(笑)本当に美術を教える時間よりも生徒を指導する時間のほうが多くて、そんな理由で辞めちゃいました。合わせて6ヶ月くらいかな。
剣岳の山小屋で青春
山が好きなわけでもなかったんですけどね。学生のときに、私たちの時代でも「デザイン」というのがデザインされすぎちゃって。例えば、マーブルチョコは、わざと子どもがこぼすようにデザインされてるとか。あれよくこぼしたでしょ?(笑)「味の素」も、穴の大きさを大きくすることで消費を大きくしているという話を聞きました。デザインが人のためになっていないのではと考えたりすることがあって。なるべく原始的な暮らしっていうのかな。モノに囲まれない暮らしをしてみたくて、たどり着いたのが、剣岳の山小屋でした。
―――「ミニマリズム」という考えでしょうか?
なのかなあ(笑)教師になる前に「山小屋か牧場」と23、24歳の頃の私はそう思って、周りのみんなが就活をしてるときに、私は北海道の牧場にも働きに行ってみたんです。したらとても辛かった(笑)春になって教師を辞めるころ、男の子の友達で一人、山登りをしている人がいたのね。彼に「山小屋でもし働くとしたらどこがいいと思う?」と聞いてみたんです。そしたら「剣岳の仙人池はとても綺麗なところだよ」と教えてくれて。私の情報って他といろいろ比べてみるとかじゃなくて、それしかなかったんです(笑)その一言でそこにしようと。教師を辞めて6月の頭に山小屋の電話番号にかけてみました。小屋のおばさんが電話に出て、私が「働かせてほしい」って言ったら、「どこの羊羹が食いたいとか、どこのアイスクリームが食いたいとか言わないでいられるか」って聞かれて、私は「いられます」って答えたら「ウチに来なさい」って(笑)
―――それで採用されちゃったんですか(笑)ほかに従業員はいましたか?
採用でした(笑)。あとで知ったんですがすごく小さい小屋で、おじさんとおばさんと息子さんがフルメンバーの家族経営です。行ってみたら、そこは富山県立山町の芦峅寺というところで、昔から「立山信仰」で登る人の麓の村。立山・剣の小屋の経営者が、集まる村でした。今では、車でも近くまで行けるけれど、当時は最初の麓から歩かないと山に登れなかった。その村からスタート。 村から、一夏に必要な燃料や食料などを用意して山小屋に持ってゆく。私たち4人がヘリコプターに乗って、荷物は吊るして運んで、小屋に入るんです。10月の10日を過ぎたら山を降ります。それで実家に戻って、また来年の6月になったら山に行くの繰り返し。4年ほどいました。あの頃はそういう言葉は無かったですけれど、フリーターの走りかも。自分の将来に対する漠然とした不安はありました。結婚を機に、泣く泣く山を降りました。結婚したら自由度がどのくらい保証されるかってのが私はとても大事だったんです(笑)結婚してから、すぐに夫が選んだ横須賀に住みました。
おやこ劇場との出会い
―――しばらくは主婦をされていたんですか?
結婚して、一人でお昼を食べてたら「退屈だな…」って思っちゃって。結婚して一週間ぐらいで、東京のテキスタイルスクールに通い始めました(笑)そこで織りを学びました。家には機織りの機械も置いていたけど、長男が生まれて触るようになってしまうので、片付けました。
子育も最初のうちは孤独。今の人も同じ様に感じると思うけど、みんなが社会に出て、自由に旅行したり、お茶飲んで、ごはんを食べたりしてるのに、自由に出かけられない。子育てって孤独で、社会から置いてかれてしまうんじゃないかって不安にかられる。
―――子育ての孤独や大変さを共有する場所やキッカケなどはありました?
それが「おやこ劇場」です。長男が4歳のとき。キッカケは長男が頭を打ってしまい、病院で手術することになりました。そういうときに親は出来ることがあまりなかった。私に出来ることは、色々な体験をさせてあげる以外に無いなと思った。たまたま近所の、長男の2、3歳上の子たちが、おやこ劇場に入っていて、クリスマス会などをやったり。それを見て、もしかしたらあの人たちと一緒だったら「私だけでは出来ない体験」をさせてあげられるかなって。お芝居のことよりも、一緒に遊ぶ友だちとか、親同士の仲間が大事だと考えて、「おやこ劇場」に入りました。私が1人でやってあげられる体験には限りがあります。何人もの違う大人がいると、得手不得手も違う。できるだけ、子どもの体験の幅を広げたかった。
―――どのくらいおやこ劇場には関わることになったんでしょう。
入会して、2、3ヶ月後には委員になっていました。横須賀で「9条の会」が始まる2006年くらい、一番下の子どもが中学校を卒業するくらいまでは続けていました。20年近くでしょうか。子どもの学校のクラスの2/3が「おやこ劇場」の会員になるくらいまで会員は拡がっていったんです。
仲間と子どもも交えて自己実現してゆく面白さ
――――そこで得た仲間たちが今も一緒に活動して、応援してしてくださる仲間なんですね。拡げていきたいというモチベーションはありましたか?
今思うと、なんであんなに頑張ったんだろう…って感じだけど(笑)やっぱり子どもの変化が面白かったのかもしれない。長男は落ち着きがなくて、お芝居を良く観る子じゃなかった。でも、子ども歌舞伎で「牛若丸」を観に行って、しばらくしてからお墓参りに行ったときに、移動中のバスから「お母ちゃん、牛若丸のお母さんの家があるよ」と息子が言うんです。そしたら「ときわや」って石屋さんがあって。牛若丸のお母さんって「常盤御前」っていうんですよね。子どものお芝居の心への残り方ってすごいんだなとびっくりして。だから、どんな子も「おやこ劇場」に出会ってみたら良いんじゃないかなと。
あの頃は通常の例会(お芝居を観る会)は3か月に1回しかなくて、それとは別にあらゆるたくさんの取り組みを横須賀市の野比地域でやりました。みんなで三浦市の小網代に来たこともあったし、蛇のお面を頭につけたり、食べ物をみんなでつくって食べたり、お芝居の中身にはあまり関係なくて、遊びにかこつけてみんなで集まる。誰かがこんなこと面白そうじゃない?っていうのを全て実現していった。
―――思いついたことを仲間と共に活動してゆく。手作りでDIYなママさんたちだったんですね。
それって制約がないし、発想が自由。誰かが言い出しさえすれば、ああやれば、こうやればと知恵を出し合って。もしかしたら「おやこ劇場」じゃなくてもよかったかもしれないけど、仲間と子どもも交えて自己実現してゆく面白さっていうのかな。お金も使わないし、思いつくことも多岐に渡って。
そうこうするうちに、あそこのお父さんは「窯でごはんを焚くのが上手い」とか、あのお母さんは「読み聞かせが上手い」とか、あそこのお母さんは「出汁を取るのが上手い」から、うどんを打ってその出汁で食べよう、とか。自由で、それぞれのいいところが引き出される場面がつくれたから、今でもああやって子どもが大きくてもお母さんたちと繋がっていられる。
―――20代から30代を駆け抜けた青春!選挙の応援街宣をおやこ劇場からの仲間の皆さんと手作りでやってらしている様子から、岸さんの原点を見た気がします。
PTAもやりました。学校の制約の中で限界はあるけど、逆にみんなでつるんで、引き受けました(笑)「なんの役やる?じゃあみんなで学級委員会を受けよう」とか。それで餅つきをしたり。一緒に実現できる仲間が揃っていた。
誰のこどももころさせない
―――仲間のママたちとの活動の中から「平和」や「政治」への意識などはどういった経緯で育まれていったのでしょう?
横須賀では、原子力空母の母港になる話が浮上してきたところでした。 「原子力空母の横須賀母港問題を考える市民の会(NEPAの会)」という市民団体があって、アメリカ政府に訴えてゆく運動でした。何となく本能的にこれは大事なんじゃないかと思って、下の子どもを身ごもってお腹が大きかったんですけど、長男を連れて参加していたんです。勘ですね(笑)チェルノブイリの事故などもあったけれど、核の怖さはあまりよく分かってなくて。でも、横須賀の街で考えないではいられなかった。
―――おやこ劇場に入ったばかりの頃ですね。時期的にはそろそろ90年代に差し掛かる頃です。
子どもも成長して、「おやこ劇場」は小学校4年生から大人と同じお芝居を観るようになります。 「12人の怒れる男」というお芝居で民主主義を考え、「終わりに見た街」で平和を学ぶ。親も子どもと同時に学び、体験しました。どの例会でか分からないけれど、憲法についての学習会をしようってなったんです。その時に「呉東正彦」弁護士に来てもらいました。そのときに立憲主義の話、「政府は大人しい存在ではない。だから絶対離れない太い鎖で結んでいるのが憲法なんだ。」という話をしてくれました。
私たちの世代って憲法についてちゃんと教えてもらえない世代でした。それまでは「憲法は法律の親玉で私たちを縛る親分」だと誤解していた。実は、 縛っているのは権力の側という話を聞き、私たち全員がびっくりしちゃって目から鱗。
―――それまで政治について興味はあったんですか?
世の中に基地ってものがあることも知らなかったし、横須賀にあるのも知らないで引っ越して来た。社会のニュースには関心ゼロ。新聞も読まなかった。そんな20代でした。
―――年齢的な時間軸で言ったら「誰の子どももころさせない」をメッセージに掲げる 、「安保関連法に反対するママの会」と同じような感覚でしょうか。それまでは特に政治に意見をしようと考えたことすらなかったという。
同じだと思います。福島原発事故があって、政治のことを考え出した人たちと同じ。たまたま横須賀という土地柄もあり、社会に関心を持たないではいられなくなりました。そして同時多発テロ以降のイラク戦争の頃に、長男は高校生。自分の子どもが兵隊にとられたら…って不安でいっぱい。これだけは絶対に止めなきゃ、と仲間で話しました。
普通の主婦がはじめた9条の会
―――そこから横須賀で9条の会を結成する。
横須賀で9条の会をやろうと最初に誘ってくれたのが、一緒に共同代表をやってる巴ふささん。地元の町内会館に集まって「文部省 あたらしい憲法のはなし」を読み合わせるところからはじめました。発足の日を決めて、逆算して準備。私たちは「著名人を呼びかけ人にするのはやめよう。誰でも同じ一票なんだから、著名人に頼るのはやめよう」って決めたんです(笑)発足の日まで100人に呼びかける目標を立てて、発足までに66人を集めました。呉東弁護士に相談したら「記者会見をしたほうがいい」とアドバイスされ、発足集会の日に記者会見をしました。野比という小さい地域から始めたのに「野比9条の会」ではなく「横須賀市民9条の会」って名前をつけました。全員がふつうの主婦だから特に深い考えがあるわけでもなくそうなった(笑)
そうしたら80人の部屋だったのに、200人も来ちゃったんです(笑)「9条の会が横須賀で待たれてたんだ」というのをとても実感して。私たちは遊びをすごくやってきてたから、その勢いのまま次の秋の集会を決めちゃってました。66人の呼びかけ人が普通の主婦なんです。そしたら呉東弁護士が「僕が必要な人を揃えましょう」だって(笑)横須賀の市民運動の主だった人を会に入るように呼びかけてくれた。私たちはどの人がどう重要なのか全然知らないっていうのにね(笑)
―――運動を大きくするにはスキルやノウハウなんかもあるでしょうけど、基本は主婦がはじめた運動だったと。熱気を感じます。
よく男の人がいると、呉東弁護士のことを「先生」って言うんです。かながわReBornの岡田弁護士のことも「岡田先生」って呼ぶ。それだと「上下」が出来ちゃうんです。だから「先生」って誰かを呼ぶのは私たちは絶対に止めました。だって、主婦は誰かがチラシをつくるじゃない?そしたら「これはダメだよ。隣の奥さんにこのチラシ渡せない。」って。その声のほうがリアルなのね。隣の奥さんに渡せずに見て貰えないチラシだったら、どんなに立派なことが書かれていても意味がない。誰かのこと「先生」って呼んじゃうと、みんなが意見を言えなくなっちゃう。
だから意識して「さん」で呼ぶ。心の中では師匠って思ってる人もいるんだけど(笑)でも、そうしないと「私の意見なんか」って思っちゃう人が多い。特に女性はそう。どうしたらみんなが自由に発言して、対等に意見が言えるような場になるかを考えてました。そうしないと、東大出だとか、あの人に比べたら私なんて勉強不足で…とか萎縮しちゃうんです。
―――学歴や経験ではなく、誰もが自由に発言して議論がしたかった。おやこ劇場や横須賀の9条の会は女性運動であり、母親の運動であったからこそ、運動が大きくなるにつれて、男社会の壁があったんですね…。
そんな体験もあって、「横須賀市民9条の会」は年齢も性別もさまざまでした。80代から、学者から、60歳で定年したエリートから、主婦から、共通語が存在せずに幅広かった。だから余計に誰でも意見を出せる条件をつくることを考えたかった。最初の頃、レジュメは私の手書きで、「いまどき手書きのレジュメなんかありえない!」と定年したエリートから言われたりとか(笑)一緒に活動するには、お互いに歩み寄る必要を強く感じました。
―――酷いですね…。女性蔑視やハラスメントは絶対にいけません。
女性が中心になり、活動していくことに対して、理屈で分かってはいても、なかなか理解はできないんでしょう。高度経済成長を支えてきた人の定年後のリハビリではないですけど、9条の会に部下はいない、コピーも自分でとらなきゃいけないんですよ、と(笑)
―――これはとても大事なお話でした。
憲法を守る活動をはじめて数年が経ち、東日本大震災が起きました。2013年、横須賀市では、震災後初めての市長選挙だったんです。現職の横須賀市長は原子力空母母港化の容認派でした。原発事故があったのに容認する人しか出馬しないのはありえない。「誰かいないかな」って相談会を地元で始めていたんです。私は、この頃は原子力空母母港化に反対する活動が中心でした。母港化反対を争点に掲げて私が出馬しました。
声をあげはじめた息子や娘たちの世代
―――なるほど。ここで一つ特徴的なのは、岸さんの子どもの世代が関わってくることです。当時、お子さんたちはまだ20代でした。そういう人たちが原発事故以降、声を上げたり、運動を担える世代になりました。
福島の原発事故はとても大きかったです。私の子どもの世代の若いママたちは独身のときから「いらない原子力空母」という会のパレードには出ていました。でも、そのときの盛り上がりで、ついたり離れたりでした。若い世代の人が、横須賀でモノを言うってとても勇気がいる。近所の人が通るかもしれない。自衛隊員の友達に見つかるかもしれない。 近所の知り合いに見られたら「そう思ってるんだ」と認知されてしまう不安。でも、反原発の運動は普通の人が集まったでしょう。自分の意志で参加して、ハッキリした意志表示を国会前や官邸前でするのを見て「自分たちも言っていいんだ」って思ったのね。それからです。自分たちにも小さい子どもがいるのに黙ってはいられないと、彼女たちのパレードへの関わり方が変わったんです。
―――岸さんたちの世代は、地元でありローカルのアクションだったけれど、それだけでは息子や娘の世代には届かなかった。でも国会や官邸前のような東京の運動の影響を受けて、若い世代が地元に持ち帰った。
そうなんです。「嫌だ」って声出していい。自分のプラカードつくって、若い世代もスピーチを駅前ですることができるようになりました。それからみんな選挙に関わるようになり、2015年の安保法制の動きにも反応して、それでつくったのが、戦争に行かない、誰一人行かせない、「横須賀ALLs」です。9条の会よりさらにもう一回り大きい超党派でつくりました。9月12日土曜だったこともあり、その日から土曜スタンディングを毎週続け、この前の3月23日で190回です。土曜の16時からのワイデッキは、若い自衛官の皆さんが、ちょうど官舎に帰る時間で「あなたたちを戦場に行かせない」の思いでスタンディングを続けてきています。
「SEALDs」の運動にとても影響を受けました。「見せ方」を意識して、自己満足じゃなくて、どうしたら伝わるかを意識して、パレードを企画していた。横須賀でも、「見せ方」は若い世代に全て任せて、私たちの世代は人を呼ぶことに徹した。また、10年前の原子力空母母港の前から始めた「いらない!原子力空母」のエプロンワイデッキは、毎週火曜に行い、26日で450回です。どちらも女性が多く、呼びかけることをやめないこの仲間が私の原点です。
―――今回のチラシづくりのとき「これではママ友達に渡せない」って岸さんと一緒に活動している若いママが言ってたのが印象的でした。でもそれって、岸さんたちも若いころそう思っていたんですよね(笑)。ジェネレーションのズレはあっても、根本にある思いは同じなんじゃないかと。すり合わせですね(笑)岸さんのお話を聞く中で、岸さんの人生で得たダイアローグ(対話)が大きなヒントになると思いました。
私は普段は園芸のおばちゃんで、お母さんで、おばあちゃんであり、犬の散歩は朝、私が行かなくちゃいけない。政治家は特別な人の仕事ではない。政治はみんなでつくっていきたい。日本も供託金なども安ければ、気持ちのある人は選挙に出やすくなる。私が立候補することで少しでも裾野が開けたらいい。「そんな時代が訪れてきた」んです。歴史が変わり始めてる過渡期に来てるのかな。いろんな人に届くような仕組みをつくれたら。私、がんばります。