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左手の魔「平川探偵事務所ミステリーファイル」File1逆さま少女と人形使い③
逆さま少女は歌う
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四方をのっぺりしたビルの壁に囲まれた空間。はるか上の、ビルのシルエットで切り取られた灰色の空からポツリポツリと雨が落ちてくる。
その閉ざされた空間に、幼い少女が逆さまにプカプカと浮かんでいる。
可愛らしいワンピースのような白い服と柔らかそうな白い肌。フワッと広がったスカート。その清純な白と対照的な黒いおかっぱの髪。
ゆっくりと回転しながら、ゆっくり上がったり下がったり。
逆さまなのに髪が逆立ったり乱れたりしていない。スカートも捲れていない。雨に濡れた様子もない。不思議な光景だった。そしてそれらの様子がよく観察できる理由は、逆さまの少女自身がほのかに光っているからだ。
さっきから左手が疼きっぱなしだった。考えるまでもなくこの少女は魔物だ。無垢で可憐な見かけに騙されるほど俺は甘くない。
ビルの隙間は俺が通り抜けるには少々狭すぎた。身体を横にしたら通れなくはない。しかし、まごついていたら思わぬ反撃を喰らうかもしれない。
……まあいいさ。魔少女に直接触れなくても滅することはできる。
左手の手袋を脱ごうとしたその時、逆さま少女が透き通るような声で歌い出した。
雨よ降れ
銀の雨よ降れ
嫌なことも
悲しいことも
銀の雨は
ぜんぶ洗い流す
嬉しいことや
楽しいことや
銀の雨は
思い出を運んでくる……。
不思議な旋律に乗ったか細い歌声。しばしのあいだ、その声に耳を奪われた。すると、少女の、つむっていたまぶたが開いた。青く光る瞳が俺を射すくめる。
お人形は嫌い
お人形は怖い
お人形では遊ばない
お人形使いがやってくる
お人形使いに殺される
みんなみんな殺される
(何だと。人形だって?)
気を込めようとした左手から力を抜いた。
元はこの界隈を仕事場にしている顔馴染みの占い婆さんからの依頼だった。誰もいないはずのビルの谷間から女の子の歌が聞こえる。薄気味悪い。それに、変な噂が立つと客の足が遠のいてしまう。正体を暴いて取り除いて欲しい。だからこうして俺がやって来たというわけだ。
あのOLの依頼は気味の悪い人形の件だった。この少女と何か関係あるのか?
「おい。話せるか?」
"お人形は怖い"
「その、お人形のことを聞きたいんだ」
"お人形は嫌い"
「ちょっとだけでいい。歌をやめて俺と話せないか?」
"お人形使いに殺される"
ゆっくり回りながら歌う逆さま少女に俺の声が聞こえている様子はない。
……駄目か。やはり魔物とは意思の疎通はできないのか。
"左手のおじさんも殺される"
「何だと」
急に歌詞が変わった。
……左手のおじさん?
"お人形使いに殺される"
「逆さまのお嬢ちゃん。それは俺のことか?」
こっちから質問しておきながら、まさか返事があると思っていなかった俺は「そうよ」とあっさり返されて驚いた。
逆さまの青い瞳がジッと見つめている。少女はもう回転していない。
「その、さっきのきみの歌の人形使いって……」
「おじさんはその左手でわたしを殺しに来たのね」
「えっ」
「そうなんでしょ」
「……いや」
「嘘つき」
「う、うそつき?」
どうして俺が魔物から責められなくちゃいけないんだ。
憮然としつつも、思わず「すまん」と謝る。
「ご近所から苦情があってな。ビルの隙間から歌が聞こえ……」
「歌でおじさんを呼んだの」
「……は? 俺を呼んだ?」
「そう。来てくれて良かったわ」
噛み合っていない会話が俺を混乱させる。こんなことは初めてだ。異例だ。だいたい滅すべきターゲットとこうして話していること自体、おかしい。
「それは、どういう意味……」
「お人形使いに気をつけて」
「あ?」
「このままではおじさんは死んじゃう。その左手の力があってもね」
「……どうすればいい?」
「誰も信じちゃだめ」
「誰も?」
「そう。誰もよ」
どうして。なぜだ。
どうして魔物が俺に忠告なんてするんだ。
「じゃあわたしは行くね」
「えっ」
「もう用が済んだから」
「えっ。あ。ち、ちょっと」
「また会おうね。左手のおじさん」
「ま、待て。まだ聞きたいことがある……」
俺との会話中、静止していた逆さま少女が、また回り出した。どんどんその回転が早くなって回りながら上昇していく。それを見上げる俺。ビルの屋上のあたりまで舞い上がり、やがてその姿が鈍色の空に溶けて、消えた。
雨はいつの間にか止んだらしい。厚い雲が所々切れてさっきよりも空が明るい。見上げていた視線を落とす。そこにはビルとビルの間の狭っ苦しい薄汚れた隙間に過ぎず、逆さま少女が浮遊していた広い空間など、どこにもなかった。
(続く)
蒼井冴夜
「DarkCastle」レーベル(ホラー小説)
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