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あやまらないであまやかして

大切な人に謝らせてしまうと、どうしてこんなにも気が滅入るのか。
ある昼下がり、楽しみにしていた約束が反故になってしまい、画面に映し出される「ごめん」という文字を眺めながら不思議に思っていた。

同様に、少しも気持ちのこもっていない「気にしないで、楽しんで」の返信もまた相手の気持ちを滅入らせてしまっている気がして、それがまた憂鬱でもある。

長い間、謝られないよりは謝ってもらえる方が良いと思っていた。頑なに謝らず、「わるい」「すまんね」と軽い言葉で済まされてしまうことに憤ったりもしていた。どうして「ごめん」のひと言が言えないのかしら、と。

そうして時は過ぎ、考えていることや可愛い言葉も照れずに言える歳になった今、立て続けに優しく「ごめん」「ごめんね」と謝られる日が来て、心のねじれがなくなりさぞ晴れやかな気持ちになるかと思いきや、どうにもすっきりしない。

別に怒っているわけじゃない。まして約束を反故する原因となった相手のことをうらめしく思っているわけでもない。それだけに、どうしてこんなにももやもやするのかが分からない。

そんな中もう一度小刻みに震えるiPhoneに手を伸ばすと、次に届いたのはそっけなくも機嫌を取るようなメッセージ。

そうだ、私は謝られるよりも甘やかされる方がずっと心地よく感じてずっと好き。
自分と同じように、相手にも心地よくいてほしいもの。
「罪悪感というのが本当の愛の反対語に位置されるもの」
どこかで耳にして印象に残っていた言葉の意味はこういうことなのかもしれない。

「ねぇ、そんな風に言われたらいやでも機嫌が良くなっちゃう」

自分でも少し恥ずかしくなるくらいとびきり気持ちのこもった本心を入力するやいなや、送信ボタンをタップした。

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