アイコンとしてのタートルネック
子供の頃からもう何枚の黒いタートルネックを消費し続けているだろうか。まだそれなりに新しい記憶を振り返っても、大学入学にあたって、取り敢えずのワードローブにはベーシックなリブタートルを投入したし、仕事で訪れた真冬のパリでロストバゲージをした際は絶望しながらもプチバトーに駆け込み、綿タートルを何枚か買い込んで、ヒートテック代わりに着て、着て、着まくった。初めてジョン・スメドレーのメリノウールのタートルを買った時は大人になったという実感と共に、その着心地に昂揚した。
黒いタートルネックは私にとって、いつ何時も無くてはならないアイテムだ。首より下の上半身を黒く染め、私という存在を露出せず、誰にも見栄も媚びも無くて良いということは、とても快適である。奇を衒う必要も性を主張する必要もない。
横顔を綺麗に見せてくれるところも私がタートルネックを愛する理由の一つにあると思う。しかし気を抜いてはいけない。横顔=Profileであるように、横顔には本当の性格や性質が現れるのではないだろうか。だからこそ、タートルネックを着ている時の私はいつもよりも少しだけ姿勢が良くなる。そう、たとえ露出が無く、媚びなくて良いからと言って、決して緩みっぱなしで良いという訳では無い。そのほんの少しの緊張と自分らしさのバランスゆえに、タートルネックに袖を通している時の自分は、自分が好きな自分に近い気がする。
オードリーにマリリン、ジャッキー…歴史に名を残すような美しい女性達がタートルネックに身を包んでいるポートレイトは、いつも以上に彼女達らしく、そして品があり、神々しい。いつか、どんなに着飾った姿よりも黒いタートルネックで佇んでいる時の方が素敵だと言って貰えるような女性になりたいものです。
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