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[エッセイ] 父の肩車

いい人

僕の父はとにかく器が大きい。
東京ドーム何杯かで数えるのすら面倒くさくなるレベルだ。

僕の父はとにかく愛がある。
その愛は海より深く山より高い。

子持ちバツイチの中国人女性と結婚し、その連れ子(僕)に、中学受験、私立の中高一貫校、駿台での浪人、と教育に惜しむことなく投資をしてくれた。
また、結婚の際は親戚一同の反対を押し切って勘当されている。

僕自身が人生について考えたり、日本社会に通底する価値観を理解できるようになってから振り返ってみると、父のこの選択がいかに容易ではなかったかが良く分かる。

父は慢性的な腰痛持ちで、幼い頃の僕が腰のコルセットは大人になったら皆巻くものだと思っていたほどだった。
父はそれでも家族の為に、身を粉にして働いていた。
収入の為に、進んで夜勤シフトを増やしてもらったりしていた。
自分の学費が大きな負担だってことくらい、馬鹿にだって分かる。

ありがとう、良い薬です。

そんな父と母は家庭内での役割が分かれていて、家庭のことは全て母の担当だった。父は子育てには口を出さなかった。僕にも、弟にも、自主性を認めて「好きにすればいい」と口癖のように言っていた。

外野から見れば無関心のように思えるが、僕たち兄弟は父の頑張りを見ていたので、愛に基づいた信頼だと気づいていた。

その一方で、母は超絶パワフル母ちゃんだった。
感情と正論と平手打ちのトリプルパンチで心身ともにボコボ…いや鍛えられた。しかし、母の教育方針は僕たちには少し難解だったり、恐怖心で何も考えられなくなることもしばしばあった。
(母の名誉の為に言うと、この方針は高校の頃までで、大学以降は僕を完全に一人の大人として尊重してくれている)

そういう時、父は僕たちの所へ来て、丁寧に母の言動の意図を解説してくれた。「お母さんもお父さんみたいな諭し方ならいいのにな」なんて思いながら、僕たち兄弟は母親の意図を時間差で飲み込んだ。

母の𠮟責のあまりの熱量に胃もたれした僕たちを癒してくれるような優しさが父にはあった。


家はあります。

少し「変わった」形ではあったけれど、素敵な両親の愛情を受けて育ったことに僕は心から感謝している。
だからこそ、将来は、両親にお金の心配をさせずに悠々自適な老後を叶えてあげたいし、弟の学費を援助してあげたいと考えていた。

しかし、自分の人生について考えると、やはり、僕にもしたいことはある。
一度妥協してしまうと二度と戻れないことを僕は知っている。
だからこそ、20代の今のうちに妥協せずに挑戦してみたい。

「お金目当てで就職先探したけど、実はそれは自分のしたいことじゃない。だから、来年、就職浪人という形でやり直したい。」

そう伝えた。
帰ってきた返答はこうだった。

「一歩引いて世の中を見てみる余裕を持ちましょう。」
「焦る必要はありません。」

自分は一歩引いて世の中を見る余裕なくずっと働き詰めだったのに、どうして僕にはそんなことを言うのか。

「今まで散々金を食いつぶしてきたんだから、我儘言ってないでとっとと働けこのドラ息子」

と言われてしまいたかった。けれど、「お行儀よく」諦める理由を父はくれなかった。代わりに一言。

「家ならあります。」

その文面を見た時、熱い涙が溢れてきた。

この人は一体どうしてこんなに愛情が深いのか。
どうしてそのボロボロな体で、25歳の大の大人の僕を喜んで肩車してくれるのか。

もう言葉が追い付かないからこれ以上は書けないけれど、この文章で僕の父親の自慢が少しでも出来ていたらいいなと思う。

( 父の自慢エピソードをもう一つ思い出したので追記します)

まさかの二者面談

高校一年生の頃、三者面談があった。
面談当日、僕は面談をすっかり失念してすっぽかしてしまった。
予定の時間になっても僕が来ないので、まさかの当事者不在で父親と担任の二者面談が始まった。

その日の夜、僕は母親に鉄拳制裁を受けたのだが(それはそう)、父親は「忘れてたなら仕方がない。あの先生いい人そうで良かった。」と気にも留めない様子で母を宥めてビールで晩酌をしていた。
僕にとってその三者面談は「やらかして母にビンタをされた」苦々しい失敗談でしかなく、その面談の内容を知る由はなかった・・・

先日、当時の担任の先生と飲みに行く機会があったのだが、飲み始まってすぐに先生は僕にこう聞いた。

「お父さんは元気にしてはる?」

僕は驚いた。
僕と会うのすら5年ぶりのはずなのに、なぜ父の名前が出て来るのか、僕には分からなかった。

「元気ですよ。でも、よく覚えてはりますね。」

「いやな、君のお父さんはとても印象深くて覚えてるんや。」

「はぁ…」

「君、三者面談に来んかったことあったやろ?」

「あーありましたね…あの時はすみませんでした。」

「あの時な、君が来んから僕と君のお父さんの2人で話したんや。」

「はい。」

僕は今まで知らなかったあの日の面談内容がどんなものだったのか明かされる予感が、した。

「すみません、タバコ吸っていいですか?」

「かまへんで。けど、身体に悪いからあんまり吸うなよ。」

「はい。」

僕は心の準備をするためにわざと話に横槍を入れた。
しかし、そのお店は母校の先生たちの行きつけで、周りを顔なじみの先生方に囲まれて煙草を吸う行為が背徳感を覚えるだけだったので、すぐに煙草を消した。しかし、その間に心の準備は出来た。

「面談で何話したんですか?」

「うちは進学校って言うのもあって、『うちの子の成績どうですか?』とか『良い大学にどうしても進ませたいです』とか『医学部に進んで欲しいんです』とか、そういう『熱心』な親御さんが多いんや。」

「まあ、そんな感じはしますね。」

「だからな、僕も『うたたネ君は文系に適性があると思うんですけど、本人は理系で宇宙開発をしたいって言っています』って君のお父さんに言ったんや。」

「あー僕が国連か宇宙かで悩んでいた時期でしたね。」

「そしたらな、君のお父さんは『うたたネがやりたいようにやらせてあげたいと思っています。それが親の役目だと思っています。』って言いはったんや。」

「そうなんですか。」

「ほんまに素晴らしい親御さんやと思ってな。ずっと覚えてるんや。」

「まぁ、確かに好き勝手やらせてもらってますね。」

「大事にしいや?」

「はい。」

先生は父が法律上では義父であることも知らない。
実の親でも、自由を尊重してくれて、失敗した時に優しく受け止めてくれてまた前に進む後押しをしてくれるのが当たり前ではないことを知った。

僕は良く周りに

「うたたネはいろんなことに挑戦してて凄いね」

と褒められるけど、それは僕がすごいのではなく、ひとえに

「失敗しても大丈夫、好きにやりなさい」

という父の大きな優しさに守られていたからである。

4歳の時に出会った父がいつから僕を思ってくれていたのかは分からないけど、少なくとも僕が知る限りでは十年前も今も変わらない。
きっと、もっと前からだろう。
父は寡黙だけれど、一本の筋が通ったカッコイイ人だ。

僕も父のような人間になりたい。

愛のカタチ

僕は受けてきた愛しか与えられないと思っている。

凄惨な虐待のニュースを聞いても、誰も悪くないと思ってしまう。
彼らは愛を知らない。
無い袖は振れないし、知らない愛は与えられない。
もちろん、法治国家として罰則は必要だけれど、より必要なのは「愛される」という経験なんだと思う。

大人だって老人だって、生きている限り愛されたいものだ。
でも、愛が欲しいからって、くれくれ言っても仕方ない。
まずは自分から誰かに愛をおすそ分けしないと。

自分が言いたいことをグッと飲み込んで冷や冷やしながらその人を見守って、失敗した時には黙ってそばにいてあげる。

これが僕がもらった、そして持っている愛。



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