[小説] 消えた馬刺し #月刊撚り糸
「ほんと、やってらんないよな」
そう言いながら真田は喫茶店のソファに自分の背中を叩きつけるように座る。緑のベルベットソファは随分と削れて毛足が短くなって全体的に白みがかっている。お店の看板も名前も内装もソファもテーブルもマスターも年季がにじみ出ているが、だからこそこの時代にまだ全席喫煙可能なのだろう。
「奉献、お前もアイスコーヒーでいいよな?」
「あ、う…」
「マスター、アイスコーヒー2つお願いします」
真田は奉献の返事も待たずにカウンターに居るマスターに注文をする。マスターからの返事は特にないが、これで注文は通ることを二人共もう知っている。
味のある喫茶店に昼食後の一服をしに来た真田優(まさる)と北村奉献(ほうけん)は同じ会社の同期である。二人はコンサルティングファーム勤めで、会社は業界内での就職人気も給与水準も高い。
真田も北村も痛々しいほどまでの自己アピール合戦を勝ち抜いて入社を掴んだはずだったが、半年に渡る研修を終えて蓋を開けてみると、配属先はとある自治体の委託業務の現場だった。一等地にある煌めくオフィスビルの本社から弾き出され、自治体の税事務所の中で企業から送られて来る給与支払報告書や償却資産申告書の郵便物の山に溺れそうになる日々。締切が近い1月末は繁忙期で毎日終電の時間までトラブルや納期と戦う。現場での戦力の大多数である派遣社員たちは時々大きなミスをしでかしては定時に綺麗に帰っていく。
ネクタイを緩めて、セブンスターを口に咥えて今まさに火を点けようとしている真田がなぜ電子煙草から紙巻煙草に戻したのか、奉献にも痛いほど分かった。奉献がそうであるように、きっと真田の頭からも消えないのだろう。「こんなはずじゃなかった」という思いが。
「なんか、仕事のことはあんまり考えたくないから違う話しようぜ」
真田は疲れがたまると口数が増える傾向にある。今がまさにそうだ。
「いいよ、なに話す?」
自分をあまり表に出さない奉献は物静かに答える。
「なに話す?って奉献お前…でもそうだなぁ、そう言えばこのお店のBGMっていつもおしゃれで落ち着くよな」
「確かに」
「先週かな、この店でかかってたジャズがかなり良くて奉献がトイレに行っている間にこっそりShazamで調べてレコード買ったんだよ」
「別にその場で言って俺と共有してくれてもいいのに」
「自分で言うのもなんだけど、俺ってなんか脳筋キャラあるだろ?ジャズが好きなんて言いにくいんだよな」
「じゃあどうして俺には言うの?」
「奉献って自分の話もしないけど、他人の話もしないじゃん。だから信用できるんだよな」
「だって話す理由がないから。でもそれだとやっぱり先週その場で俺にジャズの話してくれても良かったのに」
「やめろやめろ話を捏ねるな、コンサルかお前は」
「実際そうだし、真田だって…」
「バカ野郎それもやめろ」
真田はそう言いながらも体を震わせて笑っていて、その揺れで煙草の灰がローテーブルに落ちた。
「あのさ」
真田はテーブルに落ちた灰をおしぼりで拭きながら話し続ける。
「なに?」
「もし、今この瞬間から1アーティストしか聴けなくなるとしたら誰を選ぶ?」
「それって、グループミュージシャンでもいいってこと?」
「そうだな」
「例えば常田大希って答えたら、King Gnuもミレパも両方聴ける?」
「重箱の隅を突くなよ、雰囲気でわかるだろ」
「へへ、ごめん。ダメだよね」
「当たり前だろ。で、奉献は誰にする?俺は東京事変だな」
「そうだな、俺は…」
◇
就活をしていた頃、北村奉献も就活生の例に漏れず就活垢なるものを開設して情報収集をしていた。しかし、すぐに幻滅をした。謙遜に見せかけたマウンティングが飛び交い、何の確証もない情報商材が就活生の間で売買され、挙句の果てにはオンラインで行われる適性試験の替え玉まで横行していた。適性試験の結果を偽って入社したところで、その会社が求めている適正を持っていないのにどうやってその心的負荷と戦うのか不思議かつ不快で仕方なかった。
他人のことなんて放って置けばよいのに、奉献は、たった数ヶ月の就活で人生をずっと真面目に生きてきた人たちを捲くろうと小手先を磨く量産型就活生たちが怠惰の風上にも置けないと思ってしまった。
今思えば奉献自身も先が見えない不安があった。自分なりに一生懸命生きてきたのに、小手先の奴らに抜かされてしまいそうな不安が日に日に膨れ上がった。そして比例するように、ネットでの就活コミュニティに反する発言をするようになった。そもそも就活をネームバリューや収入で受験の偏差値神話の延長として見ていた事自体が未熟極まりないのに。
そんなある日、奉献のTweetに返信が来ていた。アカウント名は『馬刺子』だった。ばさし?ばさしこ?読み方はよく分からなかった。そして、返信の内容も今となってはあまり良く覚えていない。
覚えているのは、馬刺子が理系大学生であるけれど明確な目標を持って周りに流されずに学部卒で就職を選択したこと。そして、第一志望の企業から早期内定をもらっていたこと。
奉献にとって、就活アカウントを作ってよかったと思える唯一の出来事だった。リプライを重ねるうちに意気投合をし、DMでいろんなことを話すようになった。心に少し問題を抱えて精神科にかかっていた奉献に対して、馬刺子は
「体が風邪引いたら薬飲むんだから、心が風邪引いても薬飲むのは何もおかしくないよ。私もしんどいときには抗不安剤飲むよ」
と話した。就活で不利になりそうで、心の問題をひた隠しにしていた奉献は救われる思いがした。馬刺子に少しずつ心を開いた奉献は、自分がブログでほそぼそとエッセイを書いていることを伝えた。そして、エッセイストになりたいということも。奉献の文章をいくつか読んだ馬刺子は
「これはもうエッセイストだよ」
と言ってくれた。奉献は、その言葉が嬉しくて仕方がなかった。それからも奉献は定期的に馬刺子と会話をした。その中で馬刺子は好きなものを奉献に共有してくれた。ペルソナというゲーム、そしてミュージシャンのスピッツだった。
奉献は、スピッツのことがあまり好きではなかった。なぜなら、中学の頃、ひねくれた思春期の大敵である合唱コンクールの課題曲だったからだ。好きでもない曲を勝手に押し付けられて、恥ずかしがりな性格を無視されて歌えと強要された嫌な思い出があった。けれど、自分の文章を面白いと言ってくれる人が好きなのなら、きっと自分にも何か感じるものがあるのだろうと思い、スピッツの曲を聴くようになった。馬刺子が草野マサムネやプロデュースで参加した東京事変の亀田誠治の魅力を熱く語る勢いに振り落とされないように、スピッツの情報をたくさん調べてたくさん聴いた。そして、すっかりファンになった。世界に色が増えた気がした。
でもそんなある日、馬刺子のアカウントは跡形なく綺麗サッパリ消えてしまった。馬刺子で検索をしても、出てくるのは知らない人ばかりだった。厳密にいえば、あの馬刺子のことも何も知らなかったのだけれど。
◇
「そうだな、俺はスピッツかな。何なら田舎の生活だけでも良いかも知れない」
「お、おう、、、」
「なに?」
「いや、奉献のことだからまたはぐらかされるのかと思ってたから」
「俺だって自分のことを話す理由があるときは話すよ」
「へぇ、で、話した理由は?」
「理由を話す理由はないから言わない」
「なんだよそれ」
真田はまたクックックッと体を震わせて笑った。今度は煙草を持った手は灰皿の上だった。
なけなしの昼休みの時間を煙草に費やした真田と奉献は、喫茶店を出て職場に戻る。DXの風どころか、このご時世に全く換気の風も吹き込まない窓が閉め切られた郵便部屋に戻る。
奉献は、思い立って帰る方向とは逆方向を振り返った。遠くに見える一等地には、馬刺子の内定先のビルが大きく立っていた。
「元気でいてくれたらいいな」
「なに、どうした奉献、忘れ物か?」
「いや、なんでもない。さ、昼からも頑張ろうか」
「そうだな」