オッサンは、きっと犬を食った
中学生のときの話だ。ぼくは大阪の下町に住んでいて、うちの最寄駅から路面電車に乗って10分ぐらいで到着するターミナル駅から地下鉄をひとつ乗った先に学校があった。地下鉄に乗り換えるのが面倒なので、だいたい毎日ターミナル駅を降りて、学校までは歩いて通っていた。
ターミナル駅の周りは結構ガラが悪いエリアで、キャバレーやら大人の店やらが立ち並び、歩道橋の上には物乞いや、膝から先を失った白い包帯と軍服姿の傷痍軍人が共に小銭を稼いでいた。今から考えると当時は既に戦後50年は過ぎていたので、アイツはきっと偽物だ。歓楽街を過ぎると隣は公園で、ここにも大量のオッサンが昼間から寝ているような、ど汚い街だったが、オッサンたちは楽しそうに路上でカラオケを歌っていたりした。公園の隣はラブホテル街で、不思議なネーミングの小さなホテルが立ち並んでいた。中学生のぼくたちは、そんな道を毎日歩いていた。
毎日通りがかるので、直接のインタラクションはなくても、オッサンたちの顔を覚えるのに時間はそれほどかからなかった。心の中で「老師」と呼んでいた、垢だらけのどす黒い顔をしているが白髪白ひげの、いつもはちまきをしているオッサンはちょうど公園の入口の左手が定位置だった。
たしか秋の終わりだったと思う。老師は茶色くて大きな雑種の犬と一緒に居た。家財道具を積んだリアカーに結び付けられた犬をどこから見つけてきたのか知らないが、とにかく吠えもせず、隣におとなしく座っていたから、きっと飼っていたんだろう。そんな感じのオッサンと犬のペアは、公園に数組いたと思う。
冬になると、路上に暮らすオッサンたちはみんなどっかに消える。駅から坂を降りて下ったところにある「あいりん地区」と呼ばれるエリアでは、無料で炊き出しとかが振る舞われるし、公園は寒すぎるから、きっとそっちに行くんだろう。でも、春になるとまたどっかから湧いて公園の方に出てきて座っている。去年と同じオッサンもいれば、見かけない新顔も交じる。変な喩えだと思うが、毎年季節になると花を咲かせる花壇とかに、年が変わるとところどころ違う色の花が咲くみたいな感じだ。オッサンたちはぼくらにとって、そこにある日常の自然の風景の一部と感じられていたということだ。
ところで、オッサンたちが連れていた犬たちは、春になるとキレイに居なくなっている。冬の寒いときは暖房代わりに一緒に寝ていたのに。食っちゃったのかもしれないし、逃げたのかもしれない。何が起こっても不思議はない、ゆるさがあった。
歓楽街の、怪しい店で客引きをしているヨレヨレの蝶ネクタイの兄ちゃんも、ラブホテル街をウロウロしている厚化粧のオバハンも、歩道橋で物乞いをしている、本当は両足が生えてる(と目撃した友だちが言ってた)傷痍軍人も、全部含めてぼくらの日常の一部だった。大人になる手前の中学生だったぼくにとっては、その風景こそがリアルだったし、ちっとも嫌いじゃなかった。人間いろいろあるし、大人になるというのはいろいろなパターンが有りうる、と、むしろ可能性を感じたし、都会というのはそういう多様な人びとの多様な暮らしが共存するカオスであって、街角を曲がったところに何が出てくるのかは誰にもわからないけれど、そのリスクと常に隣り合いながら生きるというのもまた人生だと思っていた。
当時はバブルが始まった頃で、日本中が金儲け話で浮かれていた時期だ。いつの間にか日本円が異常な値段に高騰して、いままで買えなかったようなモノが買えるようになって外国の企業を買収してみたり、日本各地いろいろなところで、常軌を逸した都市開発が進んでいた。大阪の下町もその影響を受け、公金がジャブジャブ投入されて「再開発」が始まった。
ラブホテル街は一種のアンタッチャブルエリアなので、そのまま手付かずだったのだが、その隣の公園は「何とか博覧会」の会場にするという名目でキレイに整備し直すという話になった。ある日真っ白なフェンスが公園を取り囲み、エリアは立入禁止になった。数週間経って、フェンスが取り払われた公園はすっかりキレイに化粧されて、けばけばしい色の下品な花が並ぶ花壇が、オッサンたちのいた場所に新たに設営されて並んでいた。冬でもないのに、オッサンたちは居なくなり、誰もニコニコしていない、違和感だけでできた公園が代わりに出現した。
テレビでは政治家の誰かが、クリーンな街おおさか、と言うようなスローガンを笑顔で繰り返していた。坂を下った日陰の街には、オッサンたちが以前よりたくさん、だけど寂しそうな顔をして寄り集まっているというのにだ。公園でカラオケが歌えた場所も、いつの間にか奪われてしまっていた。なんというか、ぼくらまで居場所をなくしたような気持ちになった。
なんやねん、ふざけんな。駅前の、人目につきやすい公園の入口には花壇を置いて、オッサンたちを横に掃き溜めて、はいクリーンになりましたって何やねん! ぜんぜん何にも変わってないのに、はい変わりましたってぬけぬけとよく言えたな。
猛烈な憤りを感じた。今振り返って考えると、ぼくにとって、はじめての「社会の矛盾」に直面した経験だったと思う。
社会って、とくに都会って、机の上で計画するもんじゃない。そこに生きているいろんな人々の色んな事情と色んな感情が複雑に絡み合って、なんとなく微妙な距離感をお互いに保ちながら絶妙なバランスで作られていくものだ。まず人間が集まる、その結果として社会ができあがるのだ。オッサンもこどもも、善も悪も、清も濁も、いろいろ混じってるのが自然で、それを「クリーン」にしちゃうと、結局どっかに無理が来る気がするのだ。
あれから30年以上が過ぎて、ぼくらは無理が無理を重ねた都会に今、生きていると思っている。日本だけじゃない、世界中で結構同じような問題が起きているとも思う。「クリーンにする」という手段が目的化して、その先に誰も幸せにならないような都市開発が進むだけ進みきっている。
「社会的包摂(ほうせつ)」が必要だ! コミュニティーだ! なんて、改めて叫ばれたりしている。包摂する社会であるのは必要だけど、ぼくらは自分たちがその包摂を一回捨ててきたということを自覚しないといけない。善だ悪だ、アリだナシだ、ゼロだイチだ、そういう二者択一のデジタルの世界から、もう一回どっちもアリな、アナログの世界に戻ってこよう。
日本って、もともとそうだったと思うんだよな。