年間第11主日(B年)の説教
◆説教の本文
〇 「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」
この箇所について、今まではだいたいこういう説教をしていました 。
「植物を育てる自然の力に信頼せよ」。「太陽の光、土壌の持つ力、水の力に信頼せよ」。つまり、「歴史を進行させる神の力に信頼せよ」。これが喩え話のメッセージである。・・・単純にそう考えていた時が、私にもありました。
この読み方が間違っているのというのではないのですが、あまりにも単純な、または、ロマンティックな読み方になっていると、今は思います。
私たちは、イエスが身近な事物、特に、農業や牧畜を喩えに用いられたことを称賛しています。しかし、私たち自身は農業から遠い世界に住んでいることを忘れているのではないでしょうか。実際、私は小学校の夏休みに朝顔を育てたことすらないのです。
農業、そして自然に近い世界に住んでおられたイエスは、単純に「自然の力に信頼せよ」とは考えておられなかったでしょう。
〇 高橋睦郎の「百鳥の苦しき春を・・」という句があります。下五は忘れました。「無為」(何もせず、と読む)だったかも知れません。
百鳥(ももとり)とは、春の森や雑木林で賑やかに囀ずる小鳥たちのことです。しかし、その楽しげに見える風景の奥底には、生き物たちの生きることの衝迫がもたらす苦悩があるのだろう。作者はそう言っているのです。
風景のドキュメンタリー番組で見る美しく調和のとれた自然森や里山は、現実の表面に過ぎません。私は北九州の英彦山に何度か登ったことがありますが、木々が倒壊して、ひどく荒涼とした場所に出くわして驚いたことがあります。人間のせいで荒れたわけではありません。自然を荒らすのは、自然の力でもあるのです。
自然の事物は、一見すると、調和が取れ、安定しているように思えますが、 内側に入ってみると、それほど呑気でもないようです。欠乏と破壊に満ちたものでもあります。「 ご覧よ、空の鳥」という愛されている聖歌がありますが、空の鳥の暮らしはそう気楽なものではないらしいです。勤勉に働かなければ、飢えるそうです。
こういう事情は分かっている人には分かってるはずなのに、動物や植物の姿が、「心配せず、信頼して生きなさい」ということのメタファーとして使われるのは不思議な気もします。イメージとして、神の力の決定的重要性を把握しやすいからでしょうか。
メタファーというものの役割をもっとよく考えるべきなのでしょうが、今はその余裕がありません。今後の研究課題にします。
いずれにしても、メタファーを越えて、その向こう側にある「すべてを生かしてくださる方」、イエス・キリストに心を向けるべきでしょう。
〇「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのかその人は知らない。」
この喩え話は、人間の力よりも、神の力(自然の力)に重点が置かれているのは確かですが、人間の働きも無視されているわけではありません。「昼」と「 起きている」という言葉の中に、人間の役割が仄めかされています。ただボーっとしているわけではないのです。
「昼起きている」間に、人間は草を取り、水をやり、肥料を加えるのです。 もしそれをしないのならば、 結果は、ただのジャングルです。ただ、結果として獲れた作物を、人間の努力の成果として考えることは控えなければならないと思います。もっと大きな力が関わっているのです。
人間は、自然の成長のプロセスを完全に、終わりまで見通すことはできないのです。まして、人間の成長のプロセスは知り尽くすことはできません。
それにもかからず、人間は世話をしなければ なりません。
召命活動(司祭・修道者)を考えると、分かりやすいかもしれません。若者に個人的に出会って、話をしたり、召命黙想会を開いたり、せっせと畑を耕すことはどうしても必要です。
しかし、この仕事をしたことがある人なら知っていると思いますが、候補者は、自分がせっせと耕した畑から出てくるとは限りません。思いもかけぬところからポコッと出てくることも多いのです。
しかし、それでは何もしなくても結果は大して変わらないかと言うと、そうではありません。その「思いもかけぬトコロからポコッと出てくる」ことが起こるためには、日頃から、結果的には無駄であっても、せっせと活動することが必要です。候補者が出現するプロセスを知り尽くしていなくても、自分に見えている範囲で力を尽くすことが必要です。
〇 これは神の国の喩えです。神の国は必ず出現します。しかし、人間は、そのプロセスを見通すことはできません。まずそのプロセスを見通した上で、 それに合わせて、最適化された努力をするというわけにはいかないのです。
しかし、それでも、働かれる神の鼓動を感じ取ろうとしながら、1日1日を働くのです。
「神の国は次のようなものである。」「神の国を何に喩えようか。 どんな喩えで示そうか。」
(了)