年間第17主日(B年)の説教
◆説教の本文
〇 今日の福音朗読は、いわゆる「パンの奇跡」です。B年は、マルコ福音書の大事な箇所を順に読んでいくことになっています。その順番で行くなら、今日はマルコ福音書の「パンの奇跡」の記事であるはずです(6.34~44) 。しかし、今日の福音朗読では、それに代えて、ヨハネ福音書から同じエピソードが読まれます。 (ここだけではなく、B 年にはヨハネ福音書が読まれる年間主日がけっこうあります)
「パンの奇跡」は 3つの共観福音書 (マタイ・マルコ・ルカ)に載っているだけではなく、第4福音書(ヨハネ) にも、ほとんど同じ形で載っています。ヨハネ福音書は共観福音書と内容もスタイルも非常に違っているので、これは珍しいことです。この出来事が、初代教会にとって大変重要な意味を持っていたことが分かります。
〇 この出来事は、「イエスがパンを増やされた奇跡」と呼ばれることがありますが、これは複雑な出来事を「ああ、あの出来事ね」と指し示すための符牒のようなものです。
福音書は、「イエスはパンを増やされた」とは書いていません。書いてあるのは、「イエスは5つのパンと2匹の魚を手に取り、感謝の祈りを唱えられた」ということです。・・・ すると、あら不思議、5000人の群衆が満腹するまで食べられたということです。なぜ、そんな少量の食べ物で、5000人もの群衆が食べられたという結果が得られのかというメカニズムは語っていません。私たちにとって大事なことは、そのメカニズムではないからです。
私たちは、イエスに倣うように勧められています。イエスのもたらした「結果」ではなく、「イエスのなさったこと」を真似るように勧められています。
私たちはパンを増やしたり、5000人に食べさせることはできないと思っています。しかし、イエスのなさった振る舞いを真似ることはできるのです。
〇 「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。」
ミサはユーカリスト(eucharist, eucharistia)とも呼ばれます。「感謝」という意味です。私はミサを、自分に「愛と奉仕の力を補給する」ガソリンスタンドのように考えていたので、ミサをユーカリスト(感謝) と呼ぶ意味がよく分かりませんでした。「愛と奉仕の秘跡」と呼ぶ方が適切なような気がしていました。しかし、この頃、やっと分かるような気がします。
愛と奉仕を考える前に、自分たちにすでに与えられているものに感謝をすることが必要なのです。私たちがすでに持っているものは、決して、私たちが当然の権利があるものではありません。神が与えてくださったものです。だから、感謝して、それを良く用いることが必要なのです。
〇 ミサの「供え物の準備」と呼ばれる部分にはこうあります。
司祭 : 神よ、あなたは万物の造り主。ここに供えるパンは、あなたから戴いたもの、大地の恵み、労働の実り、私たちの命の糧となるものです。
会衆 : 神よ、あなたは万物の造り主。
この言葉は、パンと葡萄酒を祭壇に供える時に唱えられるものです。しかし当然、目の前に置かれる少量のパンと葡萄酒に対してのみ唱えられる言葉ではありません。私たちが生きる上で与えられている全てのものに対して唱えられる言葉です。
私の体、健康、いささかの才能、友人、生活の糧を得ることのできる仕事など、全てです。教会の仲間、修道団体の仲間もそうです。全てに対して、「神よ、あなたは万物の造り主。これらはあなたから戴いたもの、大地の恵み、労働の実り、私たちの命の糧となるものです」と唱えるのです。
私たちがそれらのものを獲得し保有するために努力をしていることも確かですが、根本的に神が与えてくださったものなのです。
それに続く「奉献文の祈り」を大事にするために、「供え物の準備」はあまり派手にしないように、御受難会の典礼学者、国井健宏神父は勧めています(『ミサを祝う』、P.189)。ミサのバランスからは一理のあることではありますが、私は「神よ、あなたは万物の造り主」、「全ては神が私たちに与えてくださったものである」という考えは、キリスト教信仰にとって根本的なものだと思うのです。「キリストによる救い」を語る前に、この真理を、ミサを祝う度に確認し、宣言することはけっこう大事ではないかと思うのです。
私たちの犯す過ちの多くは、自分が持っているものは当然の権利であると思い違いをすることから起っているような気がします。不満、敵意、傲慢、そこから生まれる争いなどが、この思い違いに起因しているのではないでしょうか。
〇 私たちが感謝できないのは、あるものが、しなければならないことに比べてあまりにも小さいからでしょう。例えば、私たちの属する小教区は小さい。活動的なメンバーはさらに少ない。そして、さらに縮小しつつあるかもしれない 。
しかし、イエスは5つのパンと 2つの魚を手に取り、感謝の祈りを唱えられた。「神よ、ここには 5つのパンと2匹の魚しかありません」とは言われなかった。ここに、5つのパンと2匹の魚があることを感謝して、感謝の祈りを唱えられたのです。ここに私たちが学ばなければならないことがあると思います。
「取る」という言葉は意外に大事です。手にささげ持って、そのずっしりした重みを感じながら、感謝の祈りを唱えられたということです。
帰天した御受難会の長老はこう言いました。「 兄弟たちが集まった時には、 一人一人がそこにいることを確認しなさい。 全ての良いことはそこから始まる。」
ここにある人や物資は、少ないかもしれない。欠点や問題が多いかもしれない。しかし、当然にあるものではありません。神が与えてくださったものだ、ということを確認する。そこから全ての良いことは始まると思います。ただし、始まるのであって、終わりではありません。
(了)