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「家族のような」をつなぐ / なべ【実行委員インタビュー#2】

関わる人やテーマが毎回違っていても、中心にある軸や価値観は繋がり、紡がれ続けているのきさき市。
2022年11月13日(日)開催の第9回のきさき市@鹿児島騎射場に向けて集った実行委員は18名。

18人それぞれがどんな想いを持ってのきさき市に関わっているのか。のきさき市が作られていく背景にはどんなことが起こっているのか。
インタビューを通して、のきさき市にある“何か大切なもの”を残していきます。


プロフィール

渡辺 貴大(わたなべ たかひろ)
愛知県豊橋市出身。鹿児島大学水産学部進学を機に来鹿。鹿児島大学を卒業後、阿久根でイワシなどの水産加工品を製造する下園薩男商店に入社。入社2年目の4月に副業として小学校などの教育サポートを行う株式会社iroriを設営しキャリア教育活動に取り組んでいる。好きな言葉は、一燈照隅万燈照国。1つの燈では隅しか照らせないが、万の燈があれば国中を照らせられるという意味の言葉で、自分の取り組みが小さくても一つの燈になれるようにしたいと思って大切にしている言葉です。

家族のようなコミュニティを

ーまずはのきさき市に関わったきっかけを教えてください。

あぶりや晃房の小池さんとの出会いがきっかけです。
進学を機に愛知から鹿児島に来て、「何かボランティアや自分の経験につながる活動を」と、水産学部のPESCA(魚食普及研究会)というサークルに入りました。そこは年に一度ぶり祭りというイベントを主催しており、騎射場の飲食店30店舗ほどに協力していただき、ぶり料理とお酒のセットを500円で提供するという取り組みをしていました。その中で未利用魚を使った商品開発の活動があり、レシピ協力で小池さんと出会ったんです。一緒に商品開発をして出店をしてと活動が進む中で「面白い学生がいるよ」と小池さんにのきさき市主宰の須部さんと繋いでいただき、第3回目に関わることになりました。

そこで社会人と学生が真剣に地域の活性化のために取り組んでいる姿を肌で体験して虜になりました。4回目となる第6回は、もっと関わりたいという想いが募っていき、同い年の人が初参加で第5回の実行委員長になったことにも刺激を受け、副実行委員長をやろうと決意。実行委員会を運営しつつ準備を進めるという体験に困惑しながらも当日を迎えられたことが今に繋がる成功体験だったと思います。

ー成功体験ですか。何か難しいことを乗り越えたんですか?

すごく怒られた経験を乗り越えましたね。
その回はのきさき市の創始メンバーががっつり参加していた最後の回だったんですが、一番厳しかったメンバーだったのでボコボコにされちゃって。それに、当時の実行委員長は無謀にもココカラカイギの委員長を掛け持ちしていて、どちらも回らず両方の委員会から怒られていて…。実行委員長が何も把握しておらず全く進んでいない状況でやっていたのでかなり大変でした。

それでも最後はめちゃくちゃハッピーエンドで終わって、大変だったけどなんとか乗り越えたのは大きな経験でしたね。

ーなんとかなるって実感できる経験はその後の支えになりますね。

ーなべさんは今回で7回目の参加ですが、なぜ何回ものきさき市を続けているんですか?

学生時代はのきさき市などのまちづくりのコミュニティに友人が多かったので自然と参加していて、むしろ参加しないと知り合いがいなくなってしまう恐怖感もあったと思います。

第7回からは開催時期と須部さんの辛い時期が重なっていたので、ここで自分がのきさき市を支えることが須部さんやのきさき市への恩返しになると思って踏ん張ってきた気がします。

自分がのきさき市で一番学んだことは地域づくりの方法ではなく、人間力や人としての生き方でした。そして、それを教えてくれたのは「きしゃば女将」と親しまれていた方です。女将は重い病を抱えながら、地域のためにのきさき市を続けていました。その意思を一番教えていただいたのは自分だという自負があったため、創始メンバーが離れた今、女将に代わり自分がのきさき市を背負おうと決意したことが大きいと思います。

ーなぜその自負があったんですか?

結局ずっと残ったのは僕だけなんです。鹿児島を出るとか色んな理由で皆のきさき市から巣立って、小池さんや須部さん、女将からの指導を受けた代は僕だけしか残らなかった。 だから、これは引き継がないといけないなと思って。

今は使っていないけど、第5,6回までは「きしゃば族」という言葉をよく使っていたんです。「つながりで出会った人たちと家族のようなコミュニティをつくる」という言葉。
今はひとつのイベントを楽しく作りましょうというコミュニティですが、当初は騎射場を自分たちが帰れるような場所にしようという目的のもと、のきさき市をやっていたんです。本気でこの地域に何かアクションを起こしていこう、その中で家族のようなつながりをつくっていこうという想いが強くて。ミーティングが終わった後にはご飯を作ってくれたこともありました。

でも、今は家族のようなつながりをつくっていくという言葉や想いを知っている人も少ない。多分、家族という部分を一番に意識していたのは女将だと思っていて、女将がいない今、その考え方を引き継ぐことができるのは僕しかいないと思ったことが大きいです。

副実行委員長に挑戦し、なんとかできた第6回

今の自分をつくった、学びと出会い

ーのきさきの経験が普段やっていることに繋がっていると感じることはありますか?

めちゃくちゃあります。僕がイベントの時にいつも意識してるのが「最後まで一番笑って、元気でいるようにしよう」ということ。これはまさにのきさき市で学んだことです。副実行委員長だったとき、「役職を張ってるなべがそんな疲れた顔でヘラヘラしてたら他の皆に示しがつかないだろう。一番元気で楽しくやってる姿を見て他の皆がついてくるんだから、周りに元気を与えるような行動をしないといけない」って色んな人が教えてくれたんです。言葉だけじゃなくて、行動や表情で人を引き連れていくというのは今も意識しています。これはコミュニケーションにおけるひとつの武器になっているかなと思います。

業務的な話でいうと、レスポンスを早くしなさいって言われてとにかく早く返そうという時期もありました。未だに遅いこともありますけどね。

あと、一番繋がっていると感じるのは、人の思考を理解するということ。須部さんや小池さん、女将の意図をどうやって他の皆に伝えるか、自分が翻訳者としてどう噛み砕いていけるかというところを意識していたことがあって、この経験が活きることはすごく多いです。

他にも、のきさき市に関わってくれている人と新しくつながることができるというのもありますね。

ーその出会いがまた次につながることもあるんですか?

あります。一番大きなつながりでいうと、一人のボランティアキャストとの出会いです。飲み会の時にたまたま話した学生がめちゃくちゃ面白くていい奴で、彼なら任せられる!と思い、その場でエリアのサブリーダーをやらないかと持ちかけました。そこからすごく仲良くなったんです。
その後、彼は休学して県内の地域おこし協力隊に着任したんですが、あるとき「今すごく悩んでるんだ」と話を聞くことがあり、「じゃあ一緒に何かやろうよ」と鹿大の補助金を取ってプロジェクトをしたんです。それが繋がって、予算がついて、事業が生まれて、会社を作って、今があるんです。彼がいなかったら、多分僕は起業もしてないし、今の会社に入社したかどうかも分からない。しかも彼がボラキャスをしなかったら出会ってなかったかもしれない。これは不思議な縁、一番の出会いでした。

その後は彼も実行委員となり、ともにのきさき市をつくった

想いが一つになるってこういうことなんだ

ーのきさき市がどうなったらいいと思いますか?

のきさき市当日もすごく大切ですが、それ以上にのきさき市を作るまでの実行委員とのつながりや今までの参加者、出店者との大切な思い出をなくさないために、変化しながらものきさき市が騎射場に残り続けることが大切だと思っています。

のきさき市のコンセプトは「私とあなたがつながるマーケット」。あなたって騎射場というまちかもしれないし、キャスト、出店者、ゲストかもしれない。そんな中で、のきさき市がなければ出会わなかった人・もの・思い出があるってとても幸せなことだと思うんです。
騎射場と何も関わりのなかった人が騎射場を好きになり、騎射場をいつでも帰って来れるような場所にできる、そんな魔法をかけられるのがのきさき市だと思っています。
自分としても、この家族のような繋がりを騎射場に残し続ける、伝え続けられることが一番の楽しみですね。

ーこれまでのきさき市をやってきて、印象に残っていることはありますか。

いつだったか、女将が泣きながら「みんながいたのきさき市だったから、本当によかった。みんな本当にありがとうね」って言ったことを朧げに覚えています。そのときに「ああ、良かった。自分たちの頑張りが報われた」と思いました。女将は本当に忙しそうにしてるけど、会いに行ったらいつも笑顔で返してくれて、色々と相談に乗ってくれて、本当のお母さんみたいな存在で。体が悪い中でも元気で、本当に太陽みたいな人だったから、その人が泣いていることも衝撃だったし、一番取り組んでいた女将からみんなのおかげだよって言われた瞬間に報われた気がしたんです。

あとはやっぱり、第6,7回の一番最後のチェックアウト(話し合いなどが終わるときに全員が一人ひとことずつ話していく時間)が印象的です。実行委員長が泣きながら想いを伝えて、その後皆で乾杯した瞬間の、あのキラキラした風景。暗い騎射場公園の中でそれがすごくキラキラして見えて、ああ、今、皆が笑顔でいるって心から感じられた瞬間は一番やりがいを感じられるというか、何物にも代えがたい幸せというか。やり切ったという達成感が見える皆の中に一緒に居れて、乾杯ができてる、その瞬間に立ち会えたのはすごく嬉しかったです。

ー私は第7回の当時、ボランティアキャストでの参加であまり深く関わってはなかったけど、すごくわかります。みんながどれだけのきさき市にかけて、こののきさき市を作れたことをどれだけ喜んでるかはものすごく伝わってきました。私もその印象が一番強かったからのきさき市を続けているのかもしれません。

そうですね。みんなの想いがひとつになった一体感はすごく心地良かった。
あと、想いがひとつになることで、その場を皆が安心安全だと思えているんだなとも思って。皆の想いがつながった瞬間が家族のようなつながりになっていくんじゃないかなと思ってます。

騎射場公園が達成感で満ちる1/365日

のきさき市が歩き始めた

何回ものきさき市をやってきて、見えてきたことはありますか?

見えてきたものというより、変化してきたことでいうと、のきさき市が「誰かのもの」にならなくなってきたと思います。
過去、「のきさき市といえば須部さんでしょ」というイメージが今以上に強かったんですが、ここ何回か通していく中で「私にとってののきさき市は…」という話し方をする人が多くなりました。今まではフォーマットがあって、そこの内容をどうしようっていう作り方だったんですが、最近はフォーマットがありつつも、これまでの枠に囚われず皆で一からつくろうという取り組み方になってきましたね。
だから、「のきさき市に参加して…」ではなくて「自分はのきさき市をやって…」と自分ごとになって、実行委員の中でのきさき市という言葉が単なるイベントではなく、ひとつの名詞のように使われてくる、そんな大きな変化があるように思います。のきさき市や騎射場と須部さん」というつながりじゃなくて、「わたしとあなた、わたしと騎射場」と本当の意味でつながってきたというか。
自分ののきさき市はって話せる人が増えるということは騎射場の未来にすごく大事なことだし、鹿児島にとってもすごく大きな変化で、のきさき市自体が自我を持ち、誰かの手を離れて自分から歩き始めている感覚があります。

ーありがとうございます。では、最後に一言お願いします。

家族のようなつながりを作るというのは引き継がれていない部分なので、共有できる良い機会になったなと思います。当日を迎えるときにキャストが「本当に家族のような空間だな」って思ってもらえるような場作りや仕掛け作りをしたいし、こんな想いを持って参加して欲しいなと思った時間でした。ありがとうございました。

インタビュー終了後も
「こんなのきさき市をつくれたらいいよね」という話をして
はちゃめちゃに面白くて、わくわくした

実行委員でも知らなかったお話をたくさん聞くことができたインタビュー。
その時々で自分たちが良いと思ったものに突き進んでいく中、一回一回が少しずつ重なり、変化していく。時には誰かの人生に変化をもたらすこともある。
これからのきさき市はどうなっていくんだろう。
不確かだけど、きっと明るい未来を想像しました。

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