玻璃の心が砕ける前に【中】
玻璃がいない朝の通学路。
相変わらずモノトーンで埋め尽くされた世界は陰鬱な色で満ちていて、救いの光を失った僕は、そこから逃げ出したくなる気持ちをどうにか押しとどめながら坂道を登る。
にゃあ。
ふと、鳴き声がした。
声のしたほうに目を向けると、黒い猫が一匹、塀の上に寝そべってのんきにあくびをしているのが見えた。猫一匹が乗るのがやっとのわずかな幅のその上で悠々と寛いでいるそいつは、よく見ればいつも玻璃が通学途中に構っていて、彼女が手を伸ばすと頭をこすりつけて甘えてくるやつだった。玻璃はシンプルに「クロちゃん」と呼んでたっけ。
僕は玻璃がしていたのと同じように手を伸ばして首元を撫でてやろうとする。だけどそいつ何が気に入らないのか、シャーッと歯を剥き出しにして僕の手の甲をひっかいた。
「痛てっ」
慌てて手を引っ込めて見てみると、手の甲に綺麗に刻まれた三本の線からはじわりと赤い血がにじみ出している。痛みが少しでも収まるように息を吹きかけてから塀の上を見ると、いつのまにかその黒猫は塀の上から姿を消していた。
僕は一つ溜息をつく。やっぱり玻璃と同じようにはいかないらしい。彼女は昔からなぜか動物に好かれていた。まるで彼らの発する声なき声が、その思考が聞こえているかのようだった。
そのかわりに人付き合いがどうにも苦手なところのある彼女は、確かに昔から上手く友達を作ることができないようだった。特に中学に上がってからはクラスに上手く馴染めなかったみたいで、クラスメイトと話している時も俯いて目を伏せる仕草をすることが多くなっていたように思う。
思い返してみれば幼稚園から一緒にいる幼なじみの僕に対してでさえ、どこか瞳の奥におびえた色を潜めていた気がする。
でもだからといって、目の前から消えようとしてしまうことはないのにーーー。
何がラッキーポイントは黒猫だよ、とまだヒリヒリする手を押さえながら僕は学校の門をくぐった。
***
結局のところ、先生の言ったように僕に出来ることは持てる時間の限りを使って彼女とコミュニケーションを取ることだけだった。仕事で忙しい彼女のお母さんに頼まれたということももちろんあるけど、なによりも僕自身が望んでやっていることだった。毎朝のように病室へ赴いては彼女がいるはずのベッドに向かってひたすら話しかける。小さく聞こえてくる声を頼りにしてどうにか彼女の存在を確認する。彼女の症状は一向に良くならず、むしろ悪化している。
姿だけでなく彼女の言葉ですら聞こえないことが増えてきていた。彼女が喋っているはずなのに、僕が認識出来なくなっている。内心の焦りを必死で隠して僕はできるだけ普段と同じように、なるべく朗らかに話す事を意識する。
彼女とのコミュニケーションが難しくなってくるのとは対照的に、黒猫のクロとは随分と仲良くなってきた。毎日構っているうちにだんだんと心を許してくれるようになって、通学路の坂道の途中、道からちらりと見える崖下にひっそりと隠れるようにして建っている廃屋を寝床にしていることも分かった。僕がうかつに手を出すと引っかかれるのは相変わらずではあるけれど。
代わり映えのしない僕の日々の中で、クロの毎日の様子は病室から出られない彼女が最も興味を示す話題だった。
「クロちゃんは元気にしてるかなぁ?」
僕は胸が痛むのを感じる。それは彼女のことを案じる痛みでもあったし、自分の心の痛みでもあった。彼女が気にかけているのがなんで僕のことじゃないんだろう。
それでも。
それでも僕は雨の日も風の日も、彼女へ向けて言葉を紡いでいた。
それが彼女をつなぎ止めることだと信じて。
***
今日は昨日から土砂降りの雨で、高台に建つ学校も臨時休校になっていた。だけど僕は変わらずいつものように朝から彼女の病室を訪れる。
へえ、今日の運勢は水瓶座が一位だってさ。朝の情報番組を見ながら彼女に話しかける。天気予報を見ながら、今日は一日土砂降りの雨らしいね、学校も裏山が土砂崩れの危険があるからって休みになったんだよと呟く。
ふと、あることに気がついた。
僕はそっと立ち上がると、病室から廊下に出て後ろ手に扉を閉める。廊下の端まで歩きながら嫌な汗が全身に吹き出していた。
『……彼女の名前はなんといったっけ?見た目は?例えば髪型は?』
長い髪を肩まで垂らしていた、いやたしかポニーテール……だっただろうか。記憶に霧がかかってしまったかのようにあやふやとなってきている。
まずい。まずい。僕は焦る。時間が経つにつれて状況は悪くなる一方だった。どうにか事態を改善する方法を見つける必要がある。
でも一体何をすればいいんだ!?
苛立ち紛れに僕は壁を力一杯殴りつけた。痛む拳に目をやると、僕の手の甲にはクロに引っかかれた傷がまだ残っていた。
……まてよ。
もしかして、人間以外の動物なら、彼女の事をちゃんと認識できるんじゃないか?彼女にすっかり懐いていたクロだったら、彼女のことを認識できるかも。
だんだんと勢いを増してきた雨が絶え間なく窓を叩きつけている。こんな天気ではクロも無事じゃないかもしれないと急に心配になった僕は、クロの様子を見に行ってくるよと彼女に声をかけようと病室に戻った。
……いない?
彼女の姿が見えないのはいつものことだけど、とても長い時間をこの病室で過ごしてきた僕には、彼女の不在が理屈ではなく感覚で感じ取れた。よく見ればベッドのシーツもぺしゃんこになっている。
いま、この部屋に彼女はいない。それは確かだ。
でもそれじゃあ一体どこに?
気圧のせいなのか、右手の甲がやけに痛む。無意識に手の甲をさすりながら、嫌な予感が全身を包んでいた。
ーーーーまさか、クロを保護しに?
僕は再び廊下に飛び出す。廊下の左右を急いで見回すと、僕が戻ってきたのと反対側の廊下のはるか先で、自動ドアが誰の姿もないのに開閉するのが見えた。
慌てて後を追って走り出した僕は廊下の角から台車を押しながら出てきた看護師さんとぶつかってしまい、床に勢いよく転がってしまった。がしゃん、と床に医療器具がまき散らされる。「ごめん、大丈夫!?」慌てて看護師さんが僕を引き起こす。引き起こされた拍子にひどく膝が痛んだ。ちらりと見やるとズボンの膝の部分が赤く滲んでいるのが見えた。さっき台車とぶつかった弾みで怪我をしたらしい。「君、もしかして怪我してない?」とこちらに話しかけてくる看護師さんを振り払って「すいません、急いでいるんです!」と言いながら立ち上がる。痛みをこらえながら再び駆け出して、クロの寝床である廃屋へと向かう。
***
病院を出ると雨は叩きつける滝のような勢いになっていて、いよいよ勢いを増し始めていた。
僕はずぶ濡れになるのも構わずに通い慣れた通学路、いつも登っている坂道を駆け上がっていく。足の痛みで体のバランスが上手く保てないからか、走っているつもりなのにスピードが全然上がらない。それに加えて坂の上から泥混じりの水が急流となって流れ落ちてきていて、油断するとすぐに足が取られてしまう。ズボンの膝は泥と滲んだ血ですっかりドロドロになってしまった。
焦燥感に足の痛みが重なって、気持ちとは裏腹になかなか前に進むことが出来ない。このままだと本当にクロも危ないかもしれない。
坂道の途中で道を外れて道路脇の藪へと分け入っていく。この先に廃屋があるはず。降り続く雨は足元を泥濘へと変えていた。
びしゃり。
足元を取られて転ぶ。歯を食いしばりながら立ち上がる。
これで全く見当外れだったら、ただのバカだな。
そんな風に自嘲しながら道の先を目指す。
全身泥だらけになりながら歩いた先に廃屋が見えた。
……にゃあ。
降りしきる雨の音に混じって小さく猫の声が聞こえた、ような気がした。
ーーーーいるのか?
廃屋の裏に回り込むと、そこには震える黒猫を抱いた彼女がずぶ濡れになりながらも軒下に座り込んでいた。
全身の力が抜け、ほっとしながら彼女に近づこうとするその時に、ずず、と不穏な音がした。
見上げると、廃屋の裏に聳え立つ崖が雨の勢いで緩み、崩れ始めている
まずい。
「玻璃、逃げろ!」
僕は叫びながら痛む足に構わず駆け寄り、その勢いのまま玻璃を突き飛ばす。玻璃と入れ替わりになった僕の目の前で崖が一気に崩れ始めた。
音を立てて目の前に迫り来る土砂を最後に、僕の意識は暗闇へと落ちていった。
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