シミュラクラ
ふらりと訪れたそのバーで、一人グラスを傾けている女性に声をかけたことに深い理由はない。しいて言えばその日はひどく酔いが回っていて、普段ならやらないような大胆な行動が出来たのだろうと思う。
「ずいぶんとつまらなそうにお酒を飲むんですね。よければお話相手になりますよ」
そう言いながら女性の横のスツールにすっと腰かける。彼女はこちらに顔を向けると値踏みするかのようにじっと見つめてきた。横顔でも美人と思ったが、正面から見ても整った顔立ちをしているな、というのが第一印象。
「若い割にはずいぶんと女性を誘うのに慣れてるのね」
彼女はこちらをからかうようにそう告げる。言葉や仕草のはしばしから大人の女性の余裕と色香がにじんでいた。
「そんなことないですよ。大人のまねをしているだけです」
こちらの返事に対して彼女は、あらそう、とつぶやくとうっすらと微笑んだ。仏像を思わせるアルカイックスマイルが、落ち着いたトーンの間接照明に照らされて、まるで自分が美術館にでもいるかのように錯覚させられる。
「まねと言えばね。中学生くらいの昔かしら。ずっと私のまねをしてくる子がいたのね」
彼女はいったん言葉を区切るとちらりとこちらに目線を寄越し、話を続けてもいいか、と言外に聞いてくる。手の平を上に向けて差し出し、どうぞと促した。
「その子はずっと昔から私に憧れていたらしくて、私のまねばかりしていたの。持っているものも、髪型も、口調も」
「確かに、学生の頃は妙にいつも一緒につるんでいる女子がいましたね」
「そうね。そんな感じだったわ。どこに行くにも一緒、まるで刷り込みでもされたかのように私の後をついてくるの。正直に言って悪い気分じゃなかったわ。ああいう頃って人間関係の上下が不思議と気になる年頃だものね」
「女子はそうかもしれませんが、男子はいたって馬鹿なもんですよ。僕なんかその頃はギンナンとかぶつけあって遊んでましたね」
あらそう、と言って彼女は僕の軽口をあっさりと受け流した。目の前のグラスに入っている琥珀色の液体を、白く長い人差し指で、くるりと軽くかき混ぜながら何事もなかったかのように話を続ける。
「その子はちょっと神経質なところのある子だったのね。何か気に障るとすぐに顔や手足を自分の爪でひっかいちゃうような不安定なところがあって、リストカットの痕もあった」
そう言うと彼女は、昔の写真よ、と言ってスマホの画面をこちらに差し出した。昔の写真をそのままスマホのカメラでとったのだろう、中学生くらいの女の子が二人、カメラに向かって手を振って微笑んでいる写真が画面に写っていた。確かに神経質そうな目をした片方の子の手首の部分にはかさぶた状態ではあるものの、複数の赤い線が刻まれている。ただ、雰囲気は異なるが顔の造作は二人ともよく似ていた。姉妹と言われても信じるだろう。
「でもずっと私になりすますくらいの意気込みでまねをしているうちに、彼女もだんだんと綺麗になっていったの。そうすると男の子たちも私たちを見比べたりするのね。やれどっちが好みだとか陰で言っているのが分かったわ」
「同じ男としてお恥ずかしい。その頃の男子なんて猿みたいなもんだと思ってください」
そう告げるこちらの台詞を否定も肯定もせず、彼女はいつの間にか空になっていたグラスをバーテンダーに指し示し、お替わりを要求する。自分に付けておいてください、とバーテンダーに言うと、こちらを少し見つめたあとに、あらそう、とうなずくと、再び話を続ける。
「私たちは学校でもかなりの人気者になったわ。当然男の子からの好意を受けることもあったの。……それが悪い方に転がったのかしらね。ある日、彼女に放課後の調理実習室に呼び出されて、クラスでも人気の、ある男の子と付き合ってるのかを聞かれたのね。私はうなずいたわ。そしたらあらかじめ準備してあったのね、後ろ手に持っていたカップに入っていた煮えたぎった油をこちらに思い切りかけてきたの」
いきなりの修羅場となった展開にこちらも軽口をたたくことができず、「大丈夫だったんですか」と話すのが精一杯だった。冷静に考えれば大丈夫でなければここにいるはずはないのだが。
「とっさに左手でかばったからそれほどかからなかったし、慣れていない動作だったからか、かわいそうなことに油の大半は彼女自身に降りかかったわ。あの油で肉が焼ける匂いはいまでも鼻の奥に残っているわね」
なんてことのないように告げる彼女だが、それはかなり凄惨な光景だったのではないだろうか。
「ああ、腕はそのときのものですか」
彼女の左腕、手首の周りには包帯が巻かれている。最初はなぜかと思ったが、話を聞いてやっと合点がいった。しかしこちらの問いには彼女は反応を見せずに話を続ける。
「その子はそのまま入院して、けっきょく学校に戻ってくることはなかったわ。でもね、ひとつだけ今でもすごく覚えていることがあって。着替えの時だったかしら、私のみぞおちを見て、ほくろの位置が一緒だねって言われたの。ここのほくろの位置が同じ二人は、前世で家族だったんだよって言ってたわ。私もなんとなくそのほくろは気に入っていたから、それが彼女と仲良くなるきっかけだったかもしれない」
そう言って彼女は自分の服の胸元を人差し指で引っ張って広げ、こちらを挑発するかのように妖艶に微笑んだ。のぞき込みたい衝動をこらえながら、あくまでクールを装って告げる。
「それは是非見てみたい、ですけどね。ほくろ」
あらそう、いいわよと彼女はなんでもないかのようにうなずいた。あとは言わずもがな、そのまま二人で連れ立ってそのバーを後にして、ネオンが煌々と輝くホテルへと向かっていった。
……というのがこの前の話。
彼はそう言って話を締めくくった。今日は高校の時の男友達同士二人、話に出てきたバーとは似ても似つかない場末の居酒屋で旧交を温めているところだった。
「なんだよ、ただの自慢かよ」
「……いや、そうでもない」
そう告げる彼の声は不思議と暗かった。
「なんでだよ。美人さんをお持ち帰り出来て万々歳じゃないか」
「まあ、そういう意味ではそうなんだけどな」
妙に歯切れの悪い友人をなだめすかして続きを促すと、彼が言ってきたのは不気味な一言だった。
「彼女、ベッドに入る前、シャワーを浴びているときも、絶対に左手に巻いてある包帯をとらなかったんだよな」
「……。それって」
何も確証はない。ただの妄想と言ってしまえばそれまでではあるが、しかしところどころで感じる彼女の不審な言動が、イメージをかき立てさせる。
もしも。もしもの話ではあるが、話に出てきた彼女のまねをしていたという女の子が、彼女と「完璧に入れ替わって」いたとしたら。油は狙い過たず、呼び出された彼女の顔にすべて降りかかっていたとしたら。彼女たちを見分ける唯一の手段が左手首の傷だとしたら。
カラン、と知らぬ間に溶けたグラスの氷が音を立てた。いまさらそれを確かめるすべはなく、ただ不吉な予感だけが背筋を這い回るだけだった。