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この恋と引き換えに


命と引き換えにしてもいい、と思えるような恋をしたことはあるだろうか。
その人の事を考えるだけで居ても立ってもいられずに我が身を掻きむしってしまうような情熱的な恋。

毎朝の通勤時、乗り換えのための一駅だけのわずかな区間。
いつも同じ時間、いつも同じ車両に乗り合わせる女性に僕は恋をした。

早朝6時台のまだ人もまばらな駅のホームで、凛とした姿勢で電車を待っているその姿は荒野に咲く一輪の薔薇を思わせる。
僕はいつも早めに駅に到着してこっそりと彼女を待ち、彼女が列に並ぶのを確認してから彼女の隣を確保するのだ。
最初は僕のことを気にも留めなかった彼女だったけど、毎日のように隣に並ぶ僕をだんだんと認識してくれたのか、ちらりとこちらを見ると軽く会釈をしてくれるようになった。僕はそれに対して、渾身の笑顔で答える。それだけで今日一日を乗り切る気力が心の底から湧いてくるから不思議だ。

電車に乗りこむと、僕と彼女はそれぞれ扉の左右に分かれて立ち、手すりにつかまって何を見るでもなく窓の外を流れる風景を眺める。
そうしつつも僕は外を眺めるふりをして、彼女の様子をそっと伺うのだ。
時々視線を感じたのか彼女がこっちを見ると、僕は慌てて目を逸らす。まるで中高生に戻ったかのようなこんな行動も甘酸っぱく感じられて、寒い冬でも胸の奥がじんわりと暖かくなってくる。
だけど僕はそれ以上の行動を起こせずにいた。声をかけることもできずに彼女のことをただ見つめるだけの日々。

しかし今日は違っていた。

突然のブレーキ音と共に、電車ががくんと大きく揺れる。
そのはずみで彼女はバランスを崩し、倒れかかったところを僕は咄嗟に抱きとめた。ふわりと広がった彼女の髪からは、シャンプーの良い香りが広がり、僕の鼻先をくすぐった。
これは思いがけない幸運だった。

「すいません、急に揺れたからよろけちゃって」

彼女が慌てて体勢を戻す。彼女と話すことが出来たチャンスを僕は逃すまいと必死に会話を続ける。

「ずいぶんと急なブレーキでしたね、事故かなにかかな。怪我はないですか?」
「はい、大丈夫です。本当にすいません」
「いえいえ、こんな男でよければいくらでも掴まってください」

精一杯おどけた様子を作って彼女に笑いかける。彼女はそんな僕をみてくすりと笑ってくれた。その笑顔に勇気をもらいながら僕は続けて話しかける。

「いつもこの電車で一緒になりますよね。近くにお勤めですか?」
「はい。この4つ先の駅前にある会社に勤めているんです。そちらはいつも次の駅で降りられますよね」
「あ、ご存じでしたか、嬉しいな。僕は次で乗り換えてそこからがまた長いんですよ」

電車が再び動き出すまでの間、僕たちはお互いのことを話し続けた。
電車が次の駅にのろのろと到着するまでの間に、僕はポケットに忍ばせていた連絡先を書いた紙を彼女に手渡し、彼女はそれを受け取ってくれた。

僕は電車を降りて乗り換えホームへと向かう。
彼女は電車を降りる僕に向かって、小さく手を振ってくれた。
僕の心の中はもう会社の事なんてどうでもよくなるくらいに彼女を思わせる鮮やかな薔薇色に包まれていた。


誰かが不幸になったが故に、この恋は一歩先へと踏み出すことになった。
この恋を、人は非難するだろうか。
だが僕は問いたい。
この世界に何かの犠牲無くして生きているものが果たしているのだろうか。
いかなる人も、いや、いかなる生物も他の何かを犠牲にせずには生きられないはずだ。
この恋について僕はなんら恥じることはないと確信している。

命と引き換えにしてもいい、と思えるような恋をしたことはあるだろうか。
この恋と引き換えになったのは、僕の命ではなかったけれど。


会社での昼休み、スマートフォンで今朝の事故についてニュースを確認する。僕の代わりとなった人間がいったいどんな人間だったのか、僅かでも知りたいと思ったからだ。数多溢れるニュース記事。この国では毎日のように今朝のような不幸な事故が発生している。僕はようやくその中に、今朝の人身事故に関したものを見つけることができた。

『今朝6時ごろ、都内のJR○○線××駅にて50代とみられる男性が△△発■■行き快速電車にはねられ、現場で死亡が確認された。男性は今月初めに勤めていた会社を解雇されており、自殺と見られている』

僕は静かに目を瞑り彼の冥福を祈ったあと、指定の時間に電車を止めるという依頼をこなしてくれた報酬として、届いたメールに記載されていた銀行口座にネット経由で指定の金額を振り込んだ。

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