しんぼくさまのおひざもと
私の生まれ育った山村には、一本の巨大な樹が生えていた。
村を包むように広がる山。その山の中腹にどっしりと根を下ろし、天を衝くように枝を広げていた。その威容は見るものを圧倒させ、祈りを捧げずにはいられない神々しさを兼ね備えていた。その樹をご神体としてそこに神社が建立されたのも、おそらく自然の流れだったのだろう。
村の人たちは、夏には青々とした葉をつけて木陰を作り、秋には色づいて人の目を楽しませるその樹を「しんぼくさま」と呼び親しんでいた。
毎年のお祭りも「しんぼくさま」のお膝元で行われ、子供が生まれれば加護を祈り、老人が亡くなれば鎮魂を願った。
良いことも、悪いことも、村の出来事すべてを「しんぼくさま」は見つめ続けていた。
「この樹は村の守り神。決して切り倒してはならない」という言い伝えがこの村にはあった。もしそんなことになればこの村には災厄が起こるであろう、とも伝えられていた。
いつの頃からの言い伝えなのかはもはやはっきりとしていない。
村の人たちにとってみれば、その戒めはごく当然のことであり、時が経つにつれて改めて口にのぼる事もなくなっていった。
それが良くなかったのかもしれない。
新たに高速道路が村を突き抜けて建設される計画が持ち上がったのは30年ほど前だった。
お役所の辛抱強さはこの村に対しても例外ではなく、景気の浮き沈みに伴ってその計画は進んだり遅れたり、変更されたり戻されたりはしたものの、決して計画が止まることはなかった。
当初は村人総出で反対活動を行ったが、30年の間に活動の先頭に立っていた老人たちも一人、また一人と鬼籍に入るか、町の老人ホームに入らざるを得なくなるかして、徐々に活動は下火となり、その頃には村を出ていく若者も増え村は過疎の一途を辿っていた。
時の首相の鶴の一声で、一気に高速道路計画が現実味を帯びた時、道路建設に伴い買収の対象となる土地はその多くが村人のものではなく、いつの間にかどこかの商社の持ち物となっていた。
それには「しんぼくさま」が立つ神社の土地も含まれていた。
土地の権利者だった神主はすでに亡く、遠い都会で暮らす親族は村とは何の関係もない生活を送っており、維持費だけがやたらとかかる山林の土地は二束三文で売られてしまっていた。
高速道路の建設がいよいよ村にも及び、「しんぼくさま」の土地は権利者により簡素な目隠し塀が張り巡らされ、残された村の人々は、せめて「しんぼくさま」だけでもどうにかならないかと各所に訴えたものの、すでに法的にはなんの権利も無くなってしまっていた。
長年村人を見守ってきた「しんぼくさま」は、あっさりと切り倒され、その幹は切り刻まれてばらばらに売り払われた。
その年の夏、大型の台風が日本列島を襲った日。
村は消滅した。
不幸中の幸いか、避難勧告に従い全村民が村を離れており人的被害はなかったものの、村全体が一夜にして地図から消え去ったのだ。
原因は山崩れだった。村を取り囲む山が一斉に土砂崩れを起こし、村そのものを飲み込んだ。
これまでも大型の台風が村を襲ったことはあったものの、一部の家屋や樹木の倒壊で済んでいたのだが、今回は周囲の山すべてが一度に崩壊した。
そのことにより高速道路計画のルートは村のあった土地から今更ながら変更された。
大学で土木工学を教えている私がその原因調査を命ぜられたのは何かの縁だったのかもしれない。
現地調査に赴いた私が見たものは、かつてここに人の営みがあったとは到底想像しえないほどにあたり一面土砂に覆われた惨状だった。
調査の結果、分かったことがある。
このあたり一帯の山に生えていた樹木は、すべて土中で「しんぼくさま」とその根を共有していたのだ。
「しんぼくさま」が切り倒されたことにより、周囲の山の土砂を支え維持していた木々はほとんどすべて根腐れを起こしてしまっていた。
その事によって山々の土砂を支える力は失われてしまい、台風による大量の雨水を受け止めることができずに雪崩を打って崩壊した。
皮肉にも「しんぼくさま」が実際に切り倒されることによって、言い伝えの正当性が認められたことになる。
私は乞われて各地で講演を行うたびに、この話を教訓として伝えることにしている。それがあの村の出身である私の出来るせめてもの罪滅ぼしだと思っているからだ。
もう一つ。調査の際に、私はわずかではあるが土砂崩れから生き残った「しんぼくさま」の若木を発見した。
それを増やして育成し、毎年学生と共に村のあった土地に植える活動を行っている。
この土地が再び「しんぼくさま」に覆われるのかは分からないが、地道ながらも活動を続けていこうと思っている。
今年も私は若木を一本植え終えると、静かに手を合わせて祈りを捧げる。
かつてあった一つの村と、それを支えた一本の樹に想いを馳せて。