キリトリセン
線路は街に描かれた切り取り線だと思う。
そう考えてみると、地図に描かれた線路のラインも、そのように見えてくるから不思議だ。
だから電車から見る街の風景はその街の断面図だ。
電車から見える街の風景が好きだ。特に生活感のある場所のただなかを抜けていく路線に乗り込み、車窓から見える風景をぼんやりと眺めていくのが気に入っている。
民家が密集する中を縫うように抜けていく車窓からは、家々の壁が目に入る。通りに面した部分は奇麗に着飾っていても、電車から見える裏側は化粧もされていないすっぴんの状態なことがある。
不思議なもので、通りよりも線路に面した側の方が電車に乗っている方からすればよっぽど人目につくはずなのに、まるでそこには何もないかのような無防備な裏側を晒していたりするのだ。
線路に面した空き地に野菜なんかを植えていたりして、生活圏と線路の境目があいまいな場所にも心惹かれるものがある。
僕はそういった場所で過ごしたことがないのだが、一度くらいは住んでみたいとも思う。
毎日電車から見られるのはどんな感じなのだろうか。
毎日のようであれば、見られている、という感覚もなくもはや風景の一部なのだろうか。
お互いに、存在しないかのようにすれ違っていく関係。
人と人とがあまりにも密集している時にはむしろ互いの存在をシャットアウトする機能があるのかもしれない。
満員のエレベーター内の沈黙が支配する空間のように。
都会では互いに干渉しないのが無言のルールだ。
登場人物は自分たちだけ。あとは背景を彩るモブと化す。
たとえ犯罪が目の前で起ころうとも、それは画面の向こうの出来事のように現実味がなくなっている。
車窓から外を眺めていると、ビルの隙間の狭い路地で、男女が抱き合って愛を交わしているのが見えた。
こちらからは丸見えなのに、全く気にする様子もない。
見られている、ということにすら思い至っていないのだろう。
そうでなければ人が異常なまでに詰め込まれているこの街で、正気を保つことができないのかもしれない。
別の日に車窓から見えたのは、ライトを赤く点滅させて止まっている複数台のパトカーと、大勢の警察官、そして警察官に取り囲まれなにかを喚きながら刃物を振り回している中年の男性だった。
ビルとビルに挟まれた空間の中、緊迫した状況で逮捕劇が進行していた。
だけどビルの反対側の通りでは、買い物客が楽し気に談笑しながら行き交っている。車窓から見える風景は、皮肉なまでのコントラストをそこに描き出していた。
ビル一棟、通り一本、ガラス一枚の向こう側は、はたして天国だろうか、それとも地獄だろうか。
街の断面図は、喜怒哀楽、様々な様相を手回しの幻燈のようにくるくるとこちらに見せつけながら、毎日のように展開していく。
僕は今日もキリトリセンに乗って街を巡る。
そこから見える風景がある。