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三十五年目のラブレター 第30話

 川畑は落ち着きなく暴れ狂う自分の心臓に手を焼いていた。
 島崎が来た。その事実が、彼女の気持ちを酷く高揚させた。
 いや、普通に考えたら当たり前の事だろう。既に彼はこの近くに二度来ているし、桐谷と話もしている。ここに来ない方がむしろおかしいのだ。
 だが実際にこの部屋の玄関先で桐谷と話す島崎の声を聞いた時、このほんの数日間が何年にも感じられたのだ。
 今すぐに出て行って島崎と話がしたい、彼の顔が見たい、そう思った。
 だが『刑事の川畑』がそれを許してはくれなかった。今出て行けば、これまで自分が嘘をついていたことが桐谷にバレてしまう。せっかくここまで心を開きかけ、過去の事を話し始めてくれているのだ、今ここで口を閉ざされたらこれまでの努力が水泡に帰すことになろう。それだけは何としても避けたかった。
 ぽつりぽつりと断片的に聞こえる会話から、どうやら桐谷はこのまま出かけるらしいことが感じ取れた。この息苦しさから解放されたかった川畑は、鍵をかける音の後に二人が話しながら遠ざかって行くのが聞こえてホッと一安心した。
 そう、安心しきっていたのだ。そこにまさか島崎だけが戻ってくるなど、完全に想定外だったのだ。
「桐谷さん! 桐谷さん! お荷物のお届けです」
 ――この声は島崎君だ。この私が聞き間違えるわけがない。
 川畑は両手でしっかりと口元を押さえ、僅かな物音も立てないように息を詰めて時が過ぎるのを待った。
「桐谷さん!」
 ――お願い、早く帰って。私はここにはいない。
「川畑さん、俺だ。島崎だ。居ないのか? 川畑さん」
 川畑を呼ぶ島崎の声はかなり切羽詰まっていた。川畑は玄関に飛び出したい気持ちを必死にこらえた。
 今なら桐谷抜きで話ができる。詩穂里に成りすましていることや、待遇は決して悪く無いこと、もうしばらくここで桐谷の動向を探ろうと思っていることを全て報告できる。
 だが、それによって吉井と島崎が作戦を変更したら? 桐谷は異常に勘がいい。これによって川畑が詩穂里ではない事がバレてしまったら?
 川畑の選択肢は一つしかなかった。『敵を欺くには味方から』である。
 彼女はひたすら息を殺して、島崎が諦めて帰るのを待った。僅か三十秒にも満たなかったであろう。何時間にも感じられたその時間は、最後になって彼女を動揺させる一言で締めくくられた。
「……志織!」
 ドクンと心臓が飛び跳ねた。
 ――島崎君! 私はここにいるのよ!
 心の中で叫びながら、ただただ息を殺した。
 ドアを一つドンと叩きながら大きな溜息をつくのが聞こえ、足音が遠ざかって行った。
 ――島崎君……ごめんね。
 彼女はそれからしばらくの間、じっと身じろぎ一つせずにいた。

***

 島崎が帰って十分くらい経った頃だろうか、川畑はようやく凍り付いたままの姿勢から体を開放した。もう島崎も戻っては来ないだろう。こうして何もせずにぼんやりしているのも時間が勿体ない。何から何まで桐谷の世話になっているのも申し訳ない、掃除くらいはさせて貰っても罰は当たらないだろう。
 机周りや本棚などは触られたくないだろうから、害の無さそうなトイレやお風呂場などの水回りから攻めることにして、早速川畑は掃除を始めた。
 掃除をしていて気づいたことがある。桐谷という男は『仕事を溜め込まない』人間のようだ。掃除も汚れに気付いた時にすぐにするらしく、ほとんどどこも汚れていない。風呂場も湯上り時にその場で洗っているのだろう。台所のシンク周りも換気扇周りも、掃除する場所が無いほどである。
 そういえば、最愛の彼女の写真が一枚もない。見ると思い出してしまうから、飾らずにいるのだろうか。アルバムなんかがあればいいのだが。
 本棚を見ても、簿記の本に税金関連、六法全書、辞書……小説などの娯楽本すらない。だが画集がぎっしり詰まっている、名画全集のようなものだろうか、百科事典のように分厚い本で、画家別になっている。
 ミケランジェロ、ラファエロ、ダ・ヴィンチ、ルーベンス、フェルメール、レンブラント、ドラクロワ、ミレー、ルノワール、ドガ、モネ、マネ、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ピカソ、ムンク……。番号が飛び飛びになっているところを見ると、自分の好きな画家のものだけを集めたように見受けられる。
 とりわけモネは思い入れがあるらしい。これらとは別に、モネに関する書籍がいくつか並んでいる。
 年代的にはポスト印象派くらいまでだろうか、古典を中心としてコレクションされており、比較的新しい時代のものは入れられていないようだ。
 これでは中橋とは話が合わないわけである。彼がモダニズムを基本とした美術を好んでいるのに対し、桐谷は徹底した古典芸術だ。まあ、島崎に言わせれば「ピカソもゴーギャンも俺の落書きとどこが違うんだ?」なのだろうが。
 本棚には面白いものは無さそうだと判断した川畑は、少々気が引けたが机の引き出しをそっと開けてみた。
 こちらも余程面白いものが入っているわけではなかった。電卓、そろばん、HBの鉛筆が二ダース、定規、消しゴム、新しいボールペンが六本と使いかけが一本、赤鉛筆、これは……鉛筆の補助軸か。短くなった鉛筆も大切に使う人なのだろう。そして、鉛筆を削っていた折り畳み式の小刀。そういえばこの家には鉛筆削りというものが存在しない。この人はいつも鉛筆をこの小刀一本で削っているのか。
 几帳面、綺麗好き、真面目、丁寧、器用、一途。桐谷を表現する言葉を並べるならばこんなところだろう。
 何もできない。彼の役に立ちたいのに、何一つできない。
「せめてお洗濯くらいさせて貰おう。電源入れるだけだけど、洗濯物を干すのは機械はやってくれないもんね」
 川畑は溜息交じりに洗濯機の電源を入れた。

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