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三十五年目のラブレター 第27話

「すみません、立て続けに朝から押し掛けるような真似をして」
「いえいえ、刑事さんも毎日こんなところまで大変ですね」
 島崎は昨日に引き続き、同じ時刻に宮脇家でよく冷えた麦茶を飲んでいた。
 この家の麦茶は何かが違う。懐かしい味がするのだ。何を以て懐かしいとするのか島崎自身にもよくわからないのだが、なんとなくそうとしか言いようがない味で、そこには彼のぎすぎすした気持ちをふわりと包んでくれる優しさがあった。
「この麦茶、美味しいですね。祖母の家で飲んだ麦茶の味がする。母の作る麦茶の味と違うんですよ」
「ああ、それは……」
 宮脇夫人がエプロンを外しながらご主人の隣に座った。
「やかんで煮出してるからですよ。今その辺で売ってる麦茶はみんな水出しタイプだから、あの麦茶特有の香ばしさが出ないんですよ」
 なるほど、煮出すとこの香ばしい味になるのか、と島崎は納得する。言われてみれば、祖母の家でもよく麦茶を作ると言っては木綿の袋に麦茶を入れ、それを水と一緒にやかんに入れてお湯を沸かしていた。それが冷めるまでにも時間がかかるし、冷めてから冷蔵庫に入れて冷やすのにも時間がかかった。
 祖母の家の周りで汗だくになって遊んだ時などは、麦茶をガバガバと飲んでは次ができるまでに時間がかかって、生温いまま飲んでいたのだ。
「今のものはみんな便利にできてますけど、昔のように手間暇かけた方がいいものもやっぱり少しはあるみたいですねぇ」
 と、宮脇夫人が笑う。この人がこんなふうに笑えるようになるまで、一体どれくらいの時間を必要としたのだろうか。一人娘を失うということがどれだけ辛い事か、子供のいない島崎には全く見当もつかないが、暫くの間は何をやっても娘のことを思い出してしまったに違いない。
 時間が彼らの傷をほんの僅かでも癒し、やっと娘の部屋を片付けて、当時の恋人への手紙も渡して全てが済んだところへ、こうして話を蒸し返すのはどうにも気が引ける。だが、背に腹は代えられない。この人たちにとって娘が大切であったように、また自分にとっても川畑は大切な存在なのだ。
 気まずい思いを抱えながらどうやって切り出そうかと悩んでいる島崎を気遣ってか、宮脇が「今日はどうされたんですか」と声を掛けてくれた。しかし、桐谷へ宛てた手紙が怪しいとはなかなか言い出せない。
「恵美さんが亡くなる直前に何か変わったことはありませんでしたか。どんな些細なことでもいいんです。何か気づいたことはありませんか。山へ行った日の朝、その前日、何か言ってませんでしたか」
 二人は困ったように顔を見合わせていたが、夫の方が口を開いた。
「実はわからないんです。あ、いえ、気付かなかったとか忘れてしまったとかじゃないんです、一緒に居なかったものですから」
「どういうことですか」
「ええ、その年はお盆に用事が入っていたので、一か月早く七月のアタマに両親の住む実家に戻ったんです。そこで三人で墓参りをして、年老いた両親に代わって家の事を少しやってから帰ろうと思っていたんです。車庫の修理や襖の張替えなんかですけど。ところが恵美はサークルの同窓会があると言って一人で東京に戻ったんです」
「サークルの同窓会ですか?」
「ええ、例の登山サークルの。卒業して数年経っていたので皆さんもう就職されていたんですが、中橋君が自分のギャラリーを開くことになって、そのお祝いを兼ねて同窓会をということになったらしいんです」
 そこで何かがあったのか?
「翌日電話をしたら、同窓会は楽しかったと言っていて。中橋君に久しぶりに会ったと言ってました。それから数日して家に帰ると置手紙があって、『山歩きに行ってきます』と。いつもの事なので、特に気にすることもなかったんですが、なかなか帰ってこないので心配になって捜索願を出したんです。あの子に最後に会ったのは、実家で別れた時なんです」
「あの、同窓会の後、山歩きに行くまでの間に誰かに会ったりはしてないんでしょうか、その辺は聞いてませんか?」
 宮脇は視線を落とすと力なく首を横に振った。
「誰とも会っていなかったようです。桐谷君にも聞いたんですが、翌日は月曜日なので彼も仕事がありますし」
「同窓会はいつだったんですか」
 島崎は宮脇に食いつくかのような勢いで身を乗り出していた。
「七月三日、日曜日でした。電話をしたのが四日の月曜日。山に行ったのは七日、七夕の日です。この日は木曜日だったので仕事はどうしたんだろうかと思ったんです。職場に問い合わせたところ月曜日から風邪を引いて休んでいたらしいんです。月火水と三日間寝込んで、体力の回復のために木曜日は軽く山を歩きに行ったのかと」
「それでまだ回復しきれていなくて、眩暈でも起こして転落したんじゃないかと思っていたんです」
 くそっ……同窓会も関係が無いか。同窓会で何かがあったのなら翌日の月曜日に何かが起こりそうなものだが、四日間も空いている。同窓会の線は消えたか。
 では、彼女は何故手紙を桐谷に残したりしたのだろうか。
「恵美さんが桐谷さんに残した手紙はご覧になりましたか?」
「セロテープで封がしてありました。桐谷君だけに読んで欲しかったのかもしれません。私たちは……そのままの状態で桐谷君に渡しました」
 封をしたままで渡した……なんだろう、この違和感は。桐谷はラブレターでしかないと言う。どう考えてもその手紙がキーになっている。
 何か気になる。この二人が嘘をつけるとは思えない。
 とすれば、忘れている何かがあるのか。そうでなければ、意図して隠していることがある。作戦を練って出直すしかないだろうか。
 何かネックになる一言を置き土産に残して行きたいところだが、娘に関する事しか反応できないだろう。
 ん? 娘? そうか、娘を持つ親にしかわからない親の気持ち。
「ご協力ありがとうございました。また何かあったらこちらに伺います」
「もういいのですか?」
「ええ、中橋さんのお嬢さんが誘拐されて、もう三日目なんです。早く助け出してあげないと。当時の恵美さんと同じくらいの年頃のお嬢さんなんです。では失礼します」
 島崎は後ろを振り返ることなく、足早にその家を後にした。この言葉がきっかけで何か進展することを願って。

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