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キスの練習

『やっぱり、彼女からの愛情表現がないと不安ですよねぇ』
『わかるー、彼女に直接言えないけど、正直キスぐらいはしてほしいというかー』
テレビから流れてきたその言葉に私はアイスを食べる手を止めた。
レイもそう思っているのかな。
いや、ただの深夜番組だし。そう思い、再びアイスを口に運ぶ。
『20代に聞きました!彼氏が彼女に言いたいこと!』
任務から帰ってきて、食事をとり、お風呂に入って、リラックスタイムのBGMにつけた番組だった。
恋人のレイは、よく愛情表現をしてくれる。それは、何気ない時に見せる微笑みであったり、デートの時に私の希望を聞いてくれたりと、思い返しても恥ずかしくなってくるほど。たった今、議論になっているキスだってしてくれる。
しかし、私からは1度もしていない。レイから要求されたことがないというのもあるが、あの慈しむような甘い目線を間近で見つめられるほどの恋愛耐性がないからだ。
レイもこの人達のように、キスしてほしいと思っているのかな……。だとしたら、練習が必要だよね。初めてキスしたら、歯や顎が当たって痛かったという話をよく聞くし。綺麗なレイの顔に傷をつける訳にはいかない。
私は、溶けてしまったアイスを口に運び、どのように練習するかを考え始めた。

「起きているのか?」
目が覚めると、手元のスマートフォンから声が聞こえた。
あれ?私、寝ちゃってた……?
「起きているなら、返事をしてくれ。」
慌ててスマートフォンを見ると、画面にレイの名前があった。
「ごめんなさい!もう待ち合わせ時間、過ぎたよね⁈」
「そうだな。お前も疲れていたんだろう。」
やってしまった。次の日はレイとのデートだから、早く寝ようと思っていたのに。
「あいにく、観る予定だった映画には間に合いそうにないが、私の部屋で映画を観るか?別の作品にはなるが、今日観る予定だった映画の主演俳優が出ているものがある。」
「レイが良ければ、そうしよう!」
「では、30分後にお前の家に向かう。焦らなくていい、映画の前にお前が気になっていたアフタヌーンティーの店に行こう。」
レイのフッと笑う声が聞こえた。本当に情けない。せめて、めいっぱいおしゃれしていこう。
レイはきっかり30分後に迎えに来てくれ、アフタヌーンティーも美味しかった。
しかし、映画を観るためにレイの家へ上がると、だんだん緊張してきた。泊まったこともあるし、今さら緊張することでもないのだが。
「このまま映画を観ると、風呂に入るには少々遅い時間になる。先に入るか?」
「ああ、うん、そうだね。」
何かわからないが適当に返事をしてしまった。あれ?さっきなんて言ってた?
レイからお先にどうぞ、という風に浴室を指されて意味を理解し、慌てて入った。

風呂から上がってレイが浴室に行くと、昨日から気になっていたことが再び芽を出した。
結局、昨日は練習できなかったんだよね……。
なにか自分からキスするきっかけが必要な気がして、後回しにしてしまっていたのだ。何気なく手に取った、アザラシのぬいぐるみを見つめる。
もしかして、そのきっかけって今?遅刻のお詫びに自分からキスすれば自然かもしれない。よし。では、まず練習から。
手に持っているアザラシを目の高さまで持ち上げる。
レイの目線の高さ、これぐらいだよね。
アザラシがレイだと思って、顔を近づける。
本人じゃないのに緊張してきた。
顔、少し斜めにした方がいいのかな?
うん、このぐらいかな。このまま、ターゲットを定め
「何をしているんだ?」
冷気を帯びた声が上から降り、声の方を見ると、アザラシを片手にしたレイが立っていた。
私はいつの間にか取り上げられたアザラシを見つめる。
「お前はよっぽど、このアザラシを気に入ったらしい。私が来ても気づかないぐらいにな。」
「そ、そういう訳じゃ……。」
言えない。キスの練習をしていましたなんて。しかし、マシな言い訳も思いつかない。
黙っていると、レイが隣に座ってきた。
鼓動が速くなる。きっとワンダラーを相手にしても、この速度は出せない。
「もう1度聞く。お前はこのアザラシと何をしていたんだ?」
突然始まった尋問に距離をとろうとすると、逆に詰められてしまった。
風呂に入ったばかりだというのに、体が冷えてくる。
こうなったら、正直に言うしかない。
「……練習をしようと思って、まだしていないけど。」
「練習?何のだ?」
レイが顔を覗き込んでくる。私は息を吸い、思い切って言った。
「キス……」
恥ずかしすぎてレイの顔が見られない。
沈黙を破ったのは、レイの笑い声だった。
「な、なんで笑ってるの⁈」
顔を上げると、レイが口を押さえて笑っていた。
「いや、予想外の可愛らしい答えが返ってきて……」
なによ、こっちは真剣に悩んでたのに。
レイはひとしきり笑うと、私を見つめた。
「それで、練習の成果は見せてもらえるのだろうか。」
「だから、まだ練習していないんだって!」
レイはあやすように私の頭を撫でた。
「からかって悪かった。練習なんて必要ない。それで、お前からしてくれるということでいいのか?」
レイは逃げようとする私をホールドしている。
どうやら、してもらえるまで離すつもりはないらしい。
「じゃあ、待ち合わせ時間に間に合わなかったお詫び。」
意を決してレイに向き合う。レイの顔に少しずつ近づくと、微笑むレイと目が合った。
「……目、瞑ってて。」
わかった、といいレイは目を閉じた。
レイの端正な唇にそっと近づく。
いつの間にか、部屋の中は暖かくなっていた。

P.S.
「そういえば、なんでアザラシを取り上げたの?」
「それは……。」
「まさか、やきもちやいたの?レイがぬいぐるみ相手に?」
「それ以上言うな。」

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