二月の棘 第十話 嗚呼、麗しき棘よ
『嗚呼、麗しき棘よ。麗しき棘よ。私の心を刺す棘よ。私はその棘にぬらぬらとした怒りを覚えながらも、その痛みに恍惚と身悶える。私はその棘に心の炎を煽られて、燃え盛るままにこの身を焦がして朽ちてゆく。灰となった私を貴方は抱いて泣くのだろうか。灰となった私を貴方は抱いて笑うのだろうか』
姉が言うところの胸くそ悪い手帳の中で、少し特異な文章があった。まるで詩のような美しい文章だ。誰の独白を記録したものなのだろう。その言葉を手帳の中に見つけた時、僕は不思議に思いながら何度も読み返した。
『嗚呼、麗しき棘よ』
心に棘が刺さることを、まるで讃えているような言葉だった。
僕は自分に刺さった棘が嫌で嫌でしかたがなかった。子供の頃の暗い記憶はこころの奥底に突き刺さったまま、なかなか抜けてはくれなかった。そこから目をそらすように、会社と自宅の行き来だけに意識を集中していた。
瑠衣に対する恋からも僕は結局逃げ出した。瑠衣への想いはただの同情で、自分が誰かの役にたつのだと証明したかっただけなのでは? と疑った。
瑠衣が欲しかったのは僕の持つ上っ面の優しさではなく、激しさだったのだろう。自分を見据えて奪って、燃やし尽くすような激しさ。
瑠衣はそれを先輩に求めたのだろうか。応えてもらえなかったことで絶望したのだろうか。
もう瑠衣には聞けない。瑠衣は何も答えてくれない。
先輩は、瑠衣が両親に絶縁状を突き付けていたことを話してくれた。戸籍から抜いてくれと。自分を一人にしてくれと。そんなことが可能なのか、僕には分からない。でも瑠衣は、それほど激しい怒りを親に向け、返事を待っていた。
僕は高架下の泥水だ。汚いものを飲み込んで、ただ低く低く流れ下っていくだけの泥水。どこにいても、僕は傍観者でいようとする。怖いのだ。再び傷つけられてしまうことが。
しかし泥水もまた海に戻る。いつかはあの海に戻る。凪の日もあれば荒れ狂う日もある、常にうつろう海に戻る。
◇
二月。今日は二月二十八日。今月の最終日だ。
島に渡る漁船は、もう出航していた。船上には、僕と姉、佐野先輩と篠田さん。そしてもう一人、水月奈緒がいた。
風はとても冷たい。姉達は船室にいたが、僕は船のデッキに出て冷たい風の中に立っていた。痺れるように寒い。海が荒れるから、なかなか日程が立たなかった。今日、全員の予定があいたのが不思議なくらいだ。
篠田さんは、知り合いの神主に預けた手帳が佐野先輩の手に渡ったことにとても驚いていた。というか驚かないわけがなかった。手帳が意思を持ち、見えない力で自由に動いていることが証明されたのだから。
姉が語ったことは事実だった。手帳は意図的に放置しても、必ず手元に戻ってくる。僕の場合はずっと会っていなかった瑠衣を引き寄せた。しかし、瑠衣は死んでしまった。佐野先輩のアトリエで首を吊って。
手帳は引き寄せる。棘の刺さった人間を。手帳は執拗に追い縋る。棘の刺さった人間を。手帳は何を基準にして憑りつく相手を選ぶのだろう。人なんてみんな棘を抱えて生きているというのに。棘が刺さっていない人なんて、小さな子供くらいなものだろう。
僕の周りでぐるぐると執拗に付きまとう手帳。まるでストーカーだ。いったいなにが言いたいんだ。僕のなにを奪うつもりだ。
◇
やがて、目的の島が視界に入ってきた。もう随分と沖合だ。僕らの住む街は水平線の彼方で見えない。
隠神島(おんのかみしま)。
女人禁制の聖地にふさわしい名前に感じた。あの島の神様は、いつもひっそりと、しかし厳しく、この海を渡る者たちを見つめているのだろう。
航海安全の神様とされていたが、それは表向きのことなのだと篠田さんは語った。どういうことなのかと聞いた僕に、これからその神社に向かうのだからそこで聞いて下さいと意味深なことを言う。
怨神島(おんのかみしま)。
島のほんとうの名前は、不気味なものだった。その不吉な言葉を隠すために違う文字をあてていたのだと、僕はすぐに知ることとなる。
怨(おん)。えんとも読むその言葉から連想するもの。怨恨。怨念。怨霊……うらみ。他人を怨んで呪う……。神様を祀る島に、なぜそんな不吉な名前をつけたのだろう。
あの島の女神は人間の恨みつらみを受け止めて、そしてどうするのだろう。人の呪詛を、復讐を叶えてくれる? あの島に渡る人は皆、こころの中に深い呪詛を抱えているのだろうか?
島が随分と近づいたなと思った時、カタンと音がして船室から奈緒が出てきた。少し青い顔をしている。船酔いしたのかもしれない。そう思い、僕は近づいてきた彼女に声をかけた。
「大丈夫? 酔った?」
「ううん。大丈夫です。窓から島が見えたから、もう着くのかなと思って……」
青い顔のまま言葉を返した奈緒は、不自然に微笑んで見せた。瑠衣のことがあったばかりだ。彼女も複雑な思いを抱えているだろう。しかし彼女は、それを乗り越えないといけない。
僕にしたって、姉にしたって、佐野先輩にしたって、それは同じことなんだ。たくさんの棘を心の中に抱えていても、どうにかして歩いていかなくてはならない。
「あ。カモメ?」
奈緒が上空を指さした。
白い鳥がたくさん群れをつくって飛んでいた。
遠目には何の鳥かは分からなかったが、僕らはその鳥を仰ぎ見る。
寒風などものともせずに、鳥たちは空を舞う。彼らにとって、飛ぶということはその命をつなぐことそのものなのだ。飛んで、食べて、卵をあたためて、子孫を残して。
彼らにも棘は刺さっているのだろうか。それとも、そんなものなど取るに足らないものなのか。
生きることに。ただそれだけに鳥たちは夢中で、棘なんて眼中になく過ごしているのだろうか。
僕はあの鳥に聞けない。あの鳥も答えてはくれない。僕は、僕の中にある……たぶん既にある解答を、自分で見つけ出さなければならない。
やがて、船はゆっくりと島の港に接岸した。