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ONE 第三十三話 貴方の幸せを見届けるくらいは

 パシンと小さな音をたて、暖炉の薪が一つ爆ぜた。
 赤々と燃える炎は、やがて熾火となる。激しく燃え上がり一瞬で終わる炎と違い、それはずっと長く穏やかに燃え続ける。
 薪が燃えゆくさまは人の生き死にによく似ている。
 すぐに燃え尽きてしまうものも熾火となるものも、どちらも美しく、そして尊い。

 早い時間に夕食を終えた三人は、暖炉の前でお茶をしていた。
 そのうちジェイの隣に座っていたカツミがうたた寝を始め、それを見たシドが過労を気遣った。
「来る途中もこうだったよ。残業続きみたいだけど、寝てないんじゃないかな」
 シドの言葉を聞き流しながら、ジェイの指が膝の上で寝息をたてるカツミの髪に伸びた。癖のある猫っ毛に、細い指が絡んでは梳かれる。

 シドはカツミが重度の不眠症であることしか知らない。だがジェイは不眠の理由を何度も聞かされていた。
 怖い夢を見ると。だから眠るのが怖いのだと。
 視界全てを覆いつくす白一色の世界。まるで砂漠の真ん中に放り出されたような孤独に襲われる。そんな夢を幼い頃から見続けているのだと。

「この1サイクル電話もして来なかった。私なしで何日持つか試したそうだ」
「なにそれ」
 驚いて目を丸くするシドに、ジェイが言い足した。

「当日の夜から駄目だったとさ」
「カツミね。一度泊まりにきたよ。その当日の夜に」
 吹き出しながらシドがばらす。今度はジェイが驚いて目を見開いた。
「カツミが?」
「添い寝してくれってせがまれたよ。怒る?」
 むっとした顔で、ジェイがカツミの頭を小突いた。膝の上のクリーム色の子猫は、知らんふりで眠っている。

「それと、これは言っとかないといけないだろうから」
「なんだ?」
 紅茶のカップを取り、複雑な思いを脇に押しやると、シドがゆっくり口を開いた。
「その日、カツミは自分からロイの所に行ってる」
「自分から?」
「一年前のこと、もちろん覚えてるよね」
「……ああ」
 視線を落としたジェイが、再びカツミの髪を撫でた。癒すように。慈しみをこめて。

「貴方が処分を頼みに行ったことを聞いたらしいよ。それで吹っ切れたんだと思う。もう忘れるって言ってたから。どっちにしろ、ロイの態度は柔軟になってる。カツミが会いに行けるくらいには」
「そうか」
「カツミの変わりようには驚かされるけど、なんて言って洗脳したんだ?」
「ずいぶんだな」
 ジェイはカツミの髪を撫でることをやめない。愛しげに。壊れものに触るように。そのしぐさ。他の誰にも向けない優しいまなざし。シドは息が止まるような切なさに苛まれながらも、目を離せずにいた。

「カツミのことが大事?」
 思わず口をついて出た言葉。吐き出してしまったものは、もう戻せない。シドは顔を上げることが出来なくなった。考えていたことと言うことがまるで違うじゃないか。なにを今さら。こんな分かり切ったことを!
「大事だよ。自分より、一番大事だ」
 ジェイの偽らない告白がシドの心を切り刻む。しかしシドは笑みを浮かべてみせた。ジェイは、自分が与えることの出来なかったものを掴み取ったのだ。最後の最後に手にしたのだ。

「じゃあ、幸せなんだ」
「幸せだよ。とてもね」
 シドは息を飲んだ。こんなに優しい笑みをジェイに向けられたのは、初めてだったからだ。ジェイが静かに己の幸運を讃えた。

「大切な宝石だ。それがいま、ここにあるんだよ」
 その宝石を守ろうとするように、ジェイがカツミの髪を撫で続ける。あどけない寝顔に慈しむような眼差しを向け、残り少ない時間の全てを注ぐ。
 ジェイにはもう、何の迷いもない。想いは決して揺るがず、背中を押そうとする者だけに向いている。

 二人から柔らかな光が溢れている。誰にも入り込めない光が。そう感じたシドが、眩しげに目を細めた。
 人を想うことは、どうしてこんなに底知れぬ力を生み出すのだろう。その力は人を幸福にも不幸にも引き寄せる。途方もない絶望の底に突き落とすかと思えば、届かぬはずの遥か天上にまで引っ張り上げる。
 相手の言葉が生きていく上で大きな意味を持つ。生きる指標となり、支えとなっていく。

「ジェイ。頼みがある」
「なんだ?」
「カツミの髪にキスして。この目で見ていたいんだ」
 シドの頼みに、ジェイがわずかに首を傾げた。眼鏡に反射する暖炉の炎が、当惑したようにゆらりと揺れる。
 だがそれは、光を伴ったまますぐにテーブルに置かれた。ジェイの指がカツミの髪をかきあげる。軽く唇を押し当てると頬を寄せ、今度は耳朶にキスをする。

 シドは瞬きもせずそのしぐさを見つめていた。呼吸することも忘れて。幸せだよと言ったジェイの言葉を噛み締めながら。

 自分がジェイにしてあげられることは? いまジェイに最も必要なことは? すっかり染みついてしまった使い古しの思考回路で、シドは最善の方法を探す。
 そう。いま自分にできる一番のことは。ここから去ること──。

 ──付き合わないか。十年前に切り出したのはジェイの方だった。
 だがシドは返事を保留にした。怖かったのだ。自分を根こそぎ変える相手に出会ってしまったのではと、恐れを抱いていた。
 シドは幼年学校を二年スキップした秀才だった。学生時代にも特区に入ってからも、何ひとつ挫折を知らなかった。だが彼は、全身全霊でなにかを奪い取りたいと思い続けていた。それで自分が変わってしまうことに恐れを抱きながらも、欲望は消し去れなかった。

 手にしたと思ったものは雪のように溶けていく。しかし、その記憶は残されるのだ。冷たく儚い、しかし美しい記憶が。

「ジェイ。カツミを置いて帰ってもいいかな」
 突然の提案だった。予定外だという顔をしたジェイに、シドが言い足す。
「無人車を手配しておくよ。カツミは地図を持ってるし、明日の朝6ミリアに出れば十分だろ?」

 ジェイの視線を遮るように立ち上がったシドが、診察鞄に手を伸ばしながら本心を告げた。
「皮肉を言ってるんじゃないよ。最善の方法だけを選びたいんだ。貴方がカツミを愛するように、自分も貴方のことを愛したいだけだよ」
 シドを見上げたジェイに、切ない願いが重ねられた。
「貴方の幸せを見届けるくらいは、させてもらえるだろう?」
 シドは感情を抑えられなくなっていた。目頭が熱くなる。いつもの苦笑で誤魔化そうとしたが、頬には涙がこぼれ落ちた。切なさを断ち切ろうと向けた背に、ジェイの穏やかな声がふわりと被せられた。
「ありがとう。シド」

 もう、後ろ手にドアを閉めるのが精一杯だった。声を殺して涙を拭うと、何度も言い聞かせる。ジェイに会えて良かった。幸せを確かめられて良かった。自分では与えることの出来ない幸せだったけど。

 確かに心は痛かった。血を流し悲鳴をあげていた。
 まだ小雪が舞っている戸外に一歩足を踏み出したとたん、押し殺していた嗚咽が堰を切って口からどっと溢れた。被り続けてきたペルソナはむしり取られ、切り裂かれた心からは鮮血が滴り落ちる。

 愛する人の幸福は喜びであるはずなのに、それが自分の願いであったはずなのに。なのになぜ、こんなに辛いのだろう。心が絶望を叫ぶのだろう。
 これほどの幸福と苦痛は、二度と味わうことはない。ジェイ以上に想いを募らせる相手は決して現れない。そんなことは自分が許さない。

 ガレージに入ったシドは、ジェイの車のフロントガラスを指でなぞり、そこに映る自分に笑ってみせた。
 情けない顔だ。でもこれが、本当の自分なんだろう。そう思いながら、泣き笑いの顔で目を細めた。こんな顔も悪くないと、心の内で強がりながら。


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如月ふあ
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