ONE 第六話 ふたつのパス
「ごめん。こんなとこまで付き合わせて」
奥まった一室に入るなり、フィーアが謝罪した。黙って首を振るだけのカツミに、再び微笑を浮かべてみせる。端末が並んだ広い部屋。前方に大きなスクリーンがある会議室だった。
フィーアが最前列のデスクライトを点けた。室内が仄かに照らされたが、後方は物の輪郭がようやく見える明るさしかない。
「これを見て欲しかったんだ」
一台の端末に電源が入ると、カツミは疑問をもった。自室にも端末は配置されているのに、なぜ誘い出したのだろう。それとも、ここでしか引き出せないデータがあるのか?
ログインを待つ空白時間。視線を合わせたフィーアが、いきなり核心に斬り込んだ。
「知ってるんだろ? 薬のこと」
それだけではなかったが、理由の一つではある。カツミは返答に窮した。
「そんな顔するなよ。だと思った。他に興味を持たれることなんてないしね」
「……違うよ」
「まだ何かあるの? だったら聞かせてくれないかな」
重ねられる問いにカツミは答えられない。分からないのだ。なぜフィーアが気になるのか、似ていると思うのかが。もどかしさを処理しきれず、むくれ顔のカツミがぼそりと呟いた。
「ぜんぜん違うんだね」
「えっ?」
──薄明の空の色。深く青い瞳。夢の中にいて、この世にないものを見るような、虚ろに光を帯びる双眸。
「もっと内気だと思ってたよ」
カツミが言葉を繋ぐと、フィーアは口の端を曲げて見せた。
「まあね。でも君だって違うよ。もっと、お高くとまってると思ってた。声かけたって無視されるだろうって。なのに、黙ってついて来るんだもん」
自分は上手に演じきれていたらしい。フィーアはそう安堵しながら、カツミに無視して欲しかったとも思っていた。──それなら、別の選択があったかもしれないのに、と。
フィーアの部屋はカツミと同じフロアにある。夜に室外に出ることなど滅多にないのだが、昨夜は用事があった。ドアを開けたのが、その人物の通りすぎた直後。
忘れもしない男である。彼が廊下の一番奥にあるカツミの部屋に入った時、フィーアは自身に向けられた悪意の理由を察したのだ。
フィーアもまた、以前からカツミに興味を抱いていた。ただし発端は憎しみ。死んだばかりの母親が、長年彼を虐待していたことに因る。
──お前など産まなければよかった。
存在の全否定。自分は母親にとって、いらない存在だったのだ。けれど、どこにも逃げ場がなかった。感情を無くして耐えるしかなかった。嫌われないように、目立たないように、空気のような壁をつくって。もうこれ以上、傷を負わないために。
『あの男』は自分を貶め、自分は合法麻薬に染まった。しかし、続けてしまったのは間違いなく自分の意思だ。逃げるために。自分を拒絶する世界から逃げるために。……もう薬を止めることが出来なかった。
バレてしまえば、自分は特区を追い出される。本当に行き場をなくす。向かう先は破滅だ。でも、今もたいして変わらないじゃないか。
「評議会のメインデータにアクセスしたことある?」
突然フィーアが事もなげに訊いたのは、とんでもないことだった。驚くカツミを横目に、フィーアが次のセリフを置くタイミングをはかる。
「無理だよ。そんなの」
「じゃあ、シーバル中将の端末には?」
「親父の?」
「評議会にいつもアクセスしてるんだから、メインデータと変わらないんじゃないの? 不愉快?」
「まさか。俺には関係ないよ」
カツミのひどく突き放した口調は、フィーアには意外だった。親の七光りでここに配属された、苦労知らずのぼんぼんじゃないのか? 自分とは違うはずなのに。
「だったら見てて。やってみるから」
疑問の視線の横で、フィーアが二つのパスワードを入力した。短いパスである。その『事実』さえ知っていれば、誰にでも簡単にできるのだ。
一つ目のパスは『カツミ』。息子のファーストネームそのままだった。だがディスプレイには次の入力を促すボックスが表示される。ダブルパスワードだった。
フィーアの手は止まらない。カツミの視線がタイピングされた単語に吸い寄せられた。二つ目のパスは『フィーア』。カツミは絶句した。
「兄弟なんだよ。自分は認知されてないけど」
フィーアの言葉を裏付けるように、潜入はあっけなく成功した。しかし、今の二人には表示されたデータなどなんの意味もない。
時の振り子が止まる。フィーアはいつの間にか鈍く光る小銃を握りしめていた。実戦用のハンドガン。この距離で撃ち損じるはずもない。銃口がカツミの眉間にぴたりと合わされた。
「俺を殺すのか?」
「そう。見せしめにね」
殺気だった声が響く。これはフィーアの復讐だった。彼に未来の意味はない。対極にあるモアナの光。それを消せば自分も消えるのだから。
カツミは復讐の生贄だ。奪う者たちに、奪われる哀しみを思い知らせるための。絶望を知らない者たちを、苦悩で溺死する闇に蹴落とすための。思い知ればいいんだ。誰からも必要とされなかった者の慟哭を!
「恨まれてるなんて思ってなかった」
カツミがぽつりと呟いた。深く傷ついた顔をして。しかし美しい瞳を真っすぐに向けて。
抵抗するでも逃げるでもなく、静かに立ち尽くしたままだった。全てを受け入れたように。断頭台に立つ気高い王妃のように。
なぜ? フィーアはカツミの運命受諾が理解できず、恐怖に駆られた。
「いいよ。それで気が済むんなら。殺して」
フィーアの脳裏を襲う困惑の濁流。砕けた波頭が、ざぶざぶと嗤う。浅はかさを。愚かさを。
「嘘だ!」
「嘘じゃない、フィーア。俺も一緒だよ。要らない人間だったんだ。あいつにとっては」
フィーアの口角がぴくりと痙攣した。わなわなと唇が震えだす。
何かが間違っていた? 大きな誤解をしていた? 要らない人間。何度も、何度も何度も向けられた残酷な刃だった。カツミも、それを向けられていたと言うのか?
止めようとしても止まらない震えが、銃を握る指にまで及ぶ。無意識に起こる振動が制御できない。
銃口を向けられたカツミの顔からは、一切の表情が消えていた。全てを放棄し、いのちを投げ出し、死に魅入られる。そこにいるのはまさに、フィーアそのもの。
磨きこまれた鏡に映し出される自己。生きる屍そのものである自己。自分が見ている自分。
フィーアは悟る。自分の屍を正視するのが恐ろしくて、震えが止まらないのだと。
フィーアは思考を停止させた。いや、思考は既に麻痺していた。目を瞑り、息を止め、トリガーを引こうとした……その時。銃を弾き飛ばされた痛みで我に返った。
カツミが薄暗い後方を見つめている。弾かれた銃は床を滑っていき、壁に当たるとようやく動きを止めた。
黒い人影を目にしたとたん、フィーアがカツミの脇をすり抜ける。
「ごめんね」
意味のない謝罪を残すと、フィーアは逃げるように走り去っていった。