ONE 第二十二話 混沌に染まれないプリズム
気密性の高いドアが閉まると、部屋は無音となった。その中で、カツミはじっとうずくまったままでいる。
息苦しかった。限界のなかで堪えている嗚咽が、大きな鉛の塊となって息を詰まらせていた。身の置きどころのないジリジリとした感覚がこころを追い詰めていく。意識の奥から暗い澱みが手招きをしていた。
「フィーア」
無意識に口から出た名前に驚いて、カツミが顔を上げた。こんな気持ちだったのだろうか。あの日、自分を見送った時のフィーアは。
もう何もかも終わりにしてしまいたい。自分などいなければいいのだ。ひとつ息をするたびに誰かを傷つけてしまう。自分がいることで。生きていることで。
生死の天秤が再びガタリと傾いた。振りほどいたはずの手が、さらに強く死の淵へと引きずり込もうとする。
ジェイ……生に繋ぎとめるものにカツミは縋る。縋りながらも、ほんの小さな疑いを拭いされない人に。
ロイとジェイとの間にどんな想いがあったとしても、それは色褪せた写真だというのに。
この世界は混沌の中にある。生きるものはその色に染まる。だがここに、決して染まることを許されない存在がいた。彼は透明なプリズム。この世のあらゆる想いを色に変えるプリズム。混沌を洗う鏡である導く者。
だが今のカツミは運命を担うための資質を御せず、逆に押し潰されていた。
いまやジェイはカツミの血肉の全てだった。失くしてしまえば生きていけないほどの。
こんなに弱いんじゃ話にならない。そう思いながら、カツミはデスクににじり寄った。自分の幼さがジェイの重荷となり呪縛となる。自分の弱さがジェイを傷つけてしまう。
こんなことではいけない。こんなことを繰り返していては。もうジェイを悲しませてはいけない!
カツミが一番下の引き出しに手を触れた。掌紋に反応して開くここだけは、ジェイですら何が入っているのか知らない。取り出したのは黒いセミオートピストル。警察が使っている実用性の高いハンドガンだった。
事故防止のため、自室への銃器の持ち込みは禁止されていた。しかしカツミは確実に自分を殺せるものを常に必要とした。
いつでも自分で自分を終わりにできる。その安心感で心の平静を保っていたのだ。しかし危険な歯止めは、今や最悪の凶器になろうとしていた。
弾丸の装填を確認し、銃口をくわえ込む。もう何も考えなくていい。トリガーを引けばそれで済むこと。
生き続けることは、途方もなく辛く先の見えない苦行だった。そんな日々には、さっさと幕を下ろしてしまえばいい。
顎を引き、瞼を閉じる。指がトリガーに力を込めようとした──その時。ベッドサイドに置かれている電話が鳴りはじめた。
びくりと身体を震わせたカツミが電話に目を向ける。呼び出しが止まると同時にトリガーを引こうと思った。だがコールは責め立てるように鳴り続ける。どれだけ待っても不在を悟る気配がない。
カツミの意識がすっと冷え、諦めたように銃を下ろした。ゆらりと立ち上がり、部屋の隅にある電話に足を向ける。コールはまだ続いていた。
「……はい」
平静を取り繕ってなんとか応じたカツミの耳に、聞き覚えのある皮肉まみれの声が流れてきた。
「ずいぶん遅いな。とりこみ中か?」
電話をかけてきたのは彼の父親だった。聞きたくない声を聞き溜息をついたカツミは、張り詰めていた糸が切れたように床に座り込んでしまった。
「カツミ?」
受話器から流れる声がいぶかるような響きに変わる。
「なんだよ」
「今から来なさい」
きっぱりした命令口調だが、どこか異変を感じさせる声だった。
◇
カツミは銃を引き出しに戻し、重い身体に鞭打つようにして部屋を出た。一度も訪ねたことはないが、父の部屋が中央管理棟にあるのは知っていた。
自走路を乗り継いで棟内に入り、案内ボードで確かめる。父親の部屋に行くのに、わざわざ探さなきゃいけないのかよ。自身を嘲りながら、厳重な監視下に歩を進めた。
幹部区画には認識カードひとつで入って行けた。父が手をまわしたのだろうと思いながら、ようやく辿り着いた部屋のブザーを鳴らす。すぐにドアが開いて、ロイが姿を現した。
「来たか」
父から向けられる疑念のこもった視線。顔にはまだ鬱血の痕があるはずだ。何か言われるのだろうか。カツミは身構えたが、ロイは何も問わなかった。
「座りなさい」
言われるままソファーに腰を下ろしたカツミに、ロイが封筒を差し出した。父と封筒を交互に見たカツミに、目だけで中を見るように促す。
封筒の中に入っていたのは、ジェイ・ド・ミューグレーと記された退官願いと診断書だった。
診断書には、悪性新生物、免疫機能不全、造血機能障害と病名が連記されていた。どれ一つを取っても命に関わる重篤なものばかりで、ステージは最悪である。
しかしカツミには、それらの医学用語がよく理解できない。
「退官願いは受理せざるをえない。いずれにせよ、延命治療が必要だからな」
延命? 父の言葉にカツミの顔から血の気が引いた。
ジェイから話を聞かされた時に、病状が深刻なのは分かった。でも、すぐに命が脅かされるレベルとは思っていなかった。
「死ぬのか?」
カツミの詰問にロイがわずかに眉を寄せた。
「そう。数か月以内に。確実にな」
──確実にジェイは死ぬ。あとほんの少しで。
死ぬ? いなくなってしまう? 時を押しとどめる間もなく、自分を置いて。
「言っただろう? ジェイといれば、お前は追い詰められるばかりだと。そして死にたくなると」
淡々と事実だけを告げたロイに、カツミが氷のような視線を向けた。彼の心は完全に打ち砕かれていた。
「そうさせたのは、お前だ」
カツミの口から怒りが漏れ出た。
傍にいて欲しい人は全て、全て自分から去っていく。残された者の想いなど知らずに。求めたとしても掴んだとしても、全てが手のひらからこぼれ落ちていく。
自分が求めてやまない死に魅入られたように、この身を置いて去っていく。
熱砂の風が荒れ狂う砂漠に捨てられたようだった。
無情なモアナは中空に居座り続け、この世界のものを、全て焼き尽くしてしまう。
叫び声はどこにも届かない。どんなに叫んでも孤独だけが突き付けられる。
──百年前の、あの日のように。
「中将」
起立したカツミは、もう部下の顔に戻っていた。
「明日から任務に復帰させて下さい」
どこにも向けようのない怒りが、そう言わせていた。一刻も早く現実から目を背けたかった。
「……分かった。許可する」
他の言葉を飲み込み指令だけを放ったロイが、一礼して背を向けるカツミをそのまま見送った。
言わなければならない言葉、言うべき言葉はいくらでもあった。だが彼はなにも言わない。相反する思いの中でなにも言えなかった。
カツミがドアの開閉ボタンに手をかけると、自動ドアがスライドする。瞬間、彼の肩がびくりと大きく揺れた。
ブザーを押そうとドアの外に立ったジェイと鉢合わせたのだ。
「カツミ」
呟いたジェイに刺すような視線を向けたカツミは、呼びかけに答えないまま横をすり抜け、歩き去った。その背を見送ったジェイが室内に視線を戻す。
「久し振りだな」
煙草に火をつけながら、ロイが声をかけた。