ONE 第二十九話 安息の地
「質問を返してもいいか?」
煙草に火をつけながら、ロイが重い口を開いた。神妙な面持ちでカツミが待ち構える。何を訊かれるのだろう。固唾をのみ、背筋に緊張がはしる。
父がカツミの都合を訊くことなど、これまで一切なかった。父の言葉は常に命令。絶対服従の命令だった。
「今の結果に後悔はないのか?」
向けられた言葉は、もう命令ではなかった。カツミは極度の緊張を少しだけ緩めたものの、即答は出来ない。
後悔──。短い間にたくさんのものを失くしていた。
ひとつの綻びから全てが破綻するように、隠されていた事実が自分を傷つけた。そして返す刃先が更にまわりを傷つけている。黙り込んだカツミは、最近の出来事を振り返った。
フィーアとの関係を知ったこと。彼の苦悩が自分のせいだったこと。その彼が命を絶ってしまったこと。
ジェイの余命を知ったこと。父とジェイの関係を知ったこと。自分がずっとジェイを苦しめていたこと。
シドの想いを確信したこと。ジェイを想うことが、そのまま彼を苦しめてしまうこと。
自分がいかに周りを傷つけていたのかを知ったこと。愛する人の望みが、能力の解放であること。
まともに向き合えそうな事実はひとつもなかった。受け止めるには長い時間が必要だと感じた。
だが、時計の針は止められない。刻(とき)に追い立てられている現実から、目を逸らすことはできない。
そう。ジェイは、もうすぐこの世を去る。唯一無二の拠り所を自分は失うのだ。
後悔も言い訳も、その事実の前には無力だった。現実は、どんなに縋っても泣き喚いたとしても揺るがない。受け入れるには、自分が変わるしかないのだ。
「一本くれる?」
ロイが新しい紙巻に火をつけた時、カツミが唐突に催促した。黙ったまま、吸いかけの煙草が差し出される。
それを受け取るなり思い切り吸い込んだカツミは、当然のように激しくむせ返った。
「止したほうが良かったみたいだな」
父の呆れ顔を見て、カツミはバツの悪さを隠せない。涙目で煙草をもみ消すと、渋い顔で呟いた。
「ジェイは、こんな強いの喫ってんのか」
カツミは、ロイの顔が硬く変化したことに気づかなかった。
「ジェイが?」
「喫ってるよ。おんなじの。俺の前じゃ喫わないけど」
「なるほど。あれらしいな」
苦笑で誤魔化したが、ロイは内心の動揺を必死に抑えていた。その脳裏に浮かぶひとつの泡。蒼い海に溶けるいのちの泡。何度も見てきた心象風景は、ロイの血肉に沁み込み、否定も逃避も拒んでいた。
──さあ、認めなさい。これが最後の審判です。
その瞬間、登り続けていた梯子は切り落とされてしまった。ギシギシと悲鳴を上げていた錆びた梯子と共に、この身までが深い谷底に落ちていく。
自分の望みは定めに対する勝利だったのか。それとも安息の地か。ジェイは自分のことを、ずっと待っていたのか?
黙り込んでしまったロイを訝るように見ていたカツミは、ようやく質問の答えを見つけ出した。
それは幼い彼の精一杯の強がり。必死に恐怖を抑え込んだ強がり。しかし最愛の人物に注がれた色だった。
「俺、後悔なんかしてない。全部受け入れて許せる日が来ると信じていたい。いつかフィーアにしたことも、あんたのしたことも」
「私のしたことも?」
ロイの視線は威圧だった。しかしカツミは、それを跳ね返すことなく受け止める。
「いつか、あんたを追い越した時に許してやる」
「それは楽しみだな」
顎を上げて嘲笑したロイだったが、それは息子同様の虚勢。カツミの言葉はロイの背を押すには十分だった。
──死のトパーズは、安息に向かう黄昏の色。
これでいい。ロイは自分に許しを与えた。抗いは無意味だと、ようやく認めたのだ。
もういいだろう。過去の全てを引き受け、ここに希望を託していっても。
「お前が前線に出ると大変だな」
ロイが急に話を変えた。意図が読めず眉をしかめたカツミに念が押される。
「今まで以上に負けられないからな」
その言葉で、カツミの顔が軍人のものに変化した。
「あのクローン。どうなるんだ?」
「シスという生物。聞いたことがあるか」
「メーニェの高等生命体だよな」
「シスの脳髄には一種の麻薬が含まれてる。特殊能力を増幅させる薬だ。敵はそれを胎児に使用して、自我のない能力者クローンを造っている。そのシスが今度、横流しされて来た」
残酷な現実だった。人を人として扱わない企みが当然のように繰り返されているのだ。そんなただ中に、自分もこれから飛び込んでいかねばならない。父を追い越すというのは、そういうことなのだ。
「使うのか?」
「私は反対したが評議会は乗り気だ。今のままじゃ、あのクローンは役に立たないからな。可決されるさ。そうなったら方針に従うしかない」
「使い捨てなんだな。あのクローン」
「そういうことだ」
カツミは思う。このまま行けば、二か月後にオッジ出撃になると。多くの矛盾の中で。それでも選んだ道の意味を探して。
自分がここにいる意味はなんだろう。自分に与えられた能力の意味は?
誰かに何かに、問われているような気がしていた。生まれた時から繋がっている、遠くにいる何かに。
自分がここにいる意味は? 決して取り戻すことのできない今、すべきことは?
急に立ち上がったカツミが、見上げるロイにきっぱり言った。
「一つだけ、あんたに感謝する」
「ほう。なんだ?」
「ジェイが俺に興味を持つきっかけをくれたこと」
「ははっ! そりゃまた、ずいぶんなきっかけだな」
「笑うなよ」
むくれ顔の息子を見て、ロイがくつくつと笑う。それは……父親としての笑顔だった。
「感謝される覚えはないからな。またここに来るか?」
「さあね」
不機嫌顔のカツミがロイのすぐ近くまで歩み寄った。ぎりぎりまで顔を寄せると短く言い放つ。
「特殊能力(ちから)を使うんじゃねえよっ!」
「……そうだな」
「あんたの能力も超えてやる。ぜんぶ自分のために」
突き放した言葉とは裏腹に、カツミがふわりと口づけを落とした。予想外のしぐさの意味をロイが探り当てる前に、カツミが躊躇なく胸に飛び込む。
戸惑うように回された大きな腕。カツミがずっと渇望していた温もりだった。父の腕のなかで、息子が静かに謝罪をした。
「ごめん。辛いこと訊いて。でも教えてくれて良かった。知らなかったら俺、ずっと誤解したままだった」
ロイの完敗だった。まっさらな心を差し出すカツミに、奪い続けてきたロイはもう何も出来ない。
本心を炙り出す鏡。透明で純粋なこころ。それを握り潰して、ただの人形にしようと目論んだのがロイ。それを守って、いのちを繋いだのがジェイ。
ロイには、なんの言い訳も出来なかった。どのような過去も贖罪にはならなかった。
「お前に同情されるとはな」
「同情じゃない」
「じゃあ、なんだ?」
「あんたなんか嫌いだ。でも知りたいんだ」
「……そうか」
──さあ、認めなさい。これが最後の審判です。あなたが最後の浄化する者です。彼に託しなさい。これまでずっと、あなたの祖先がしてきたように。
カツミもこの『声』を聞くことになるだろう。そして、みずからに繋がる遠い過去の予言を知るだろう。
自分はそれを引き継ぐ者。最後の生贄だったのだ。
もう降りてもいい。安息の地はそこにあるのだから。待っていた人がいるのだから。
約束された希望は腕の中にいた。涙を堪え、肩を震わせながら。遠く百年の時を越え、約束された導く者が。