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ONE 第十七話 支配者

 ギイと小さな悲鳴をあげる錆びた鉄の門。それを押し開いた時には既に陽は落ちていた。ここは特区の広大な墓地。人影はない。

 ──森に一番近い場所。言い渋るシドからフィーアの眠る場所を聞き出したカツミは、ドクターストップを無視して部屋を抜け出していた。

 冷たい霧雨が降っていた。陽が落ちてしまうと寒さは一段と厳しくなる。だがカツミは傘すらさしていない。
 墓地は夜に来る場所ではない。街灯は少なく、寒さとは別の冷気が漂っている。前方に見える森だけが真っ暗で、濃紺の空との境界線がくっきりしていた。

 目的の墓標に向かって真っすぐ歩いていたカツミが、人影に気づいて足を止めた。向こうも気づいたのか、振り返ったのが分かった。顔すら見えない距離をカツミが埋める。相手は動かない。
 やがて影の正体を知ったカツミがほっと息をついた。仄暗い場所に佇んでいたのはユーリー・ファントだったのだ。

「驚かさないで下さいよ」
「はははっ。悪かったね」
「ここなんですね」
 同罪と言いたげに笑ったユーリーだったが、沈んだカツミの表情を目にすると声を落とした。

「ああ。どうしても足が向いてしまってね。偽善と言われても仕方ないけど」
「いえ。ありがとうございます」
「えっ?」
 礼の真意が分からず疑問の視線を向けたユーリーに、カツミが秘密をうちあけた。
「義理の兄なんです。別にいいですよ。他人に言っても。もうこの世にいませんから」
 言葉をなくしたユーリーだったが、かぶりを振ると立っていた場所をカツミに譲った。

 広大な墓地には平らな墓石が整然と並び、ぽつりぽつりと淡い街灯が灯っていた。全てが特区に所属した者の墓である。隊員も、その家族も、特区の住人であれば同じように埋葬される。ここにはもう、階級も過去の栄誉もない。同じ形の石に名前だけが刻まれるのだ。

 分厚い石盤が地中の棺に蓋をしていた。カツミはフィーアの墓の前にひざまずき、指で名前をなぞる。
 墓石を囲む死者を送る花。白い花弁に滲む黒い染みが、決して変えることの出来ない事実を黙したまま告げていた。時計を逆回しには出来ないように、もうフィーアには二度と会えないのだ。
 あまりに唐突な別れだった。自分の何がいけなかったのだろう。悔恨のなかでカツミが墓石のしずくを拭う。

「ごめんね」
 こぼれ出た謝罪は、フィーアが最後にカツミに向けたものと同じだった。
「ごめんね。フィーア」
 張り詰めていたものが弾けたように、カツミが石に取りすがった。

 視線を外したユーリーは、その場からゆっくりと離れた。今までの印象をことごとく覆された思いでいた。
 自信家で生意気な新人。父親の庇護のもとで将来を約束されたエリート。カツミに対して良い印象など欠片もなかったのだ。
 それどころか、彼があっさりクローンの息の根を止めたのを見て恐怖すら感じた。……だが今のカツミは、人目もはばからず泣きじゃくっている。
 ユーリー・ファント。彼もまた悔恨を抱えていた。招いてしまった悲劇を受け入れることが出来ずに。

 ◇

 滑らかな墓石に頬を押し当て、カツミはじっとうずくまっていた。まるで地下からフィーアに抱きとめられているように、動くことが出来なかった。
 このまま雨に溶けてしまえば。そうすればフィーアの隣に行ける……。それが本当の願いかも分からずにカツミは瞼を閉じた。白く変わる息の熱だけを感じる。ずぶ濡れとなった身体が細かく震えだす。

 ザクッ──。カツミの耳に敷石を踏む音が届いた。
 誰だろう。ユーリーならもう帰ったはず。ザクリザクリと響く靴音に引き上げられ、カツミがようやく身体を起こした。じっと目を凝らして暗闇から人の輪郭を切り取ろうとする。
 やがて浮かび上がった背の高い男。それが父であることを知ったカツミは、無意識に一歩あとずさった。

「こんな時間に墓参りか?」
 ロイの声は濡れた墓石よりも冷たかった。大きな花束が無造作に放られると、死者を送る甘い香が鮮やかに小雨の中に舞った。ロイは怒りに満ちた息子の視線をこともなげに跳ね返す。

「ずいぶん濡れてるな。死ぬ気か?」
 地の底に引きずり込まれるような感覚に陥っていたのは確かだ。傷つき脆弱となっている心を踏みつけられたカツミが、その痛みに唇を引きつらせた。
「それに今日は、体調不良の欠勤と聞いていたが」
「俺が頼んだわけじゃねえよっ!」
 ロイは、噛み付いたカツミを冷徹な視線だけで押さえつける。同時に返された言葉は、カツミの疑念を確信に変えた。

「その分では、ジェイは苦労していることだろうな」
「……あんたはジェイと、どういう関係なんだ?」
「ジェイに聞くんだな」
 突き放したロイの言葉は、回答に等しかった。
 フィーアの墓石に顔を向けたロイが、固く口を閉ざす。

 ──百年かけた浄化。不条理な定めにロイはずっと抗ってきた。だが、人知の及ばぬ所で動いている歯車を止めることは出来ない。
 ロイは思っていた。自分も同じなのだ。自分もまた、カツミのために用意された生贄。フィーアは知っただろうか。あの声を聞いただろうか。たったひとつの命のために、その鏡を磨くために、供物が必要なことを。
 自分は『束ねるもの』の道具ではない。自分の手によってこの国を変えることで、運命に抗いたいと思ってきた。そのためにカツミを支配し、能力を封印させ、王女の『声』から遠ざけた。
 しかし結果はどうだ。予言通りにフィーアは死んだ。次は自分の番なのか? 抵抗など無意味だというのか。
 『導く者』はこの国を変える。意識の底を洗い清める。導く者だけは生かさなければならない。しかしなぜ、自分が最後の生贄なのか!

 カツミに視線を移したロイが再び釘を刺す。フィーアはジェイに貶められた。次がないとは限らない。
「カツミ。繰り返すようだが、もうジェイに関わるな」
「かっ」
 関係ないだろうと叫ぼうとしたカツミは、その叫びを捻じ伏せられた。前回とは比較にならない力。瞬きひとつ出来ない。

「ジェイといれば、お前は追い詰められる。愛情を受け取ることも出来ずに罪悪感ばかり覚える。そして死にたくなる。違うか? それに、お前はジェイの愛情の意味を誤解している。あいつは、代償と憎しみと自分のエゴでお前を抱いてるだけだ」

 ──代償と憎しみとエゴ。残酷な言葉にカツミの心が軋む。その理由を自分はジェイに問わなければならないのだろうか?
 父の言葉を否定する強い感情と、指摘を拒めない弱気が、カツミのなかで拮抗する。父のわずかな放言が、ジェイを信じる気持ちを無残に突き崩す。

 身動きの取れないカツミの顎に、ロイが指をかけた。唇が重なる。我が子に向けるものには程遠い激しさで。舌を滑りこませたロイが、まるで初めてみたいだなと嘲笑した。
 カツミの初めての相手。それはいま目の前にいる人物だった。七歳の時。戦慄を伴う禍々しい記憶。カツミの記憶の始まりは凌辱の痛み。ロイはあの日、カツミの心に刻印を施した。彼が父親の所有物だという刻印を。

 冷たい墓石の上にカツミは押し倒された。むせかえるような甘いリリウムの香。まさかこんなところでと顔を強張らせたカツミに、ロイが冷笑を向けた。
「下からフィーアが見てるな」
 満足気に目を細めたロイは、カツミの耳朶を噛み、濡れた上着を剥いで肩にも歯をたてた。背に触れる石の冷たさと、向けられる愛撫の熱。カツミには、拒むことも舌を噛むことも出来ない。
 気持ちとは裏腹に身体だけが反応する。羞恥と嫌悪に投げ込まれ、カツミの瞳から涙がこぼれた。
 それは十二年前の再現だった。しかしカツミの身体はもう子供のものとは違う。
「ずいぶんと仕込みがいいな」
 皮肉に頬を張られ、カツミの顔が紅潮した。
「お前は私のものだ。誰にも渡さない。ジェイにも、もちろんフィーアにも」
 射すくめるトパーズの双眸。絶対的支配者。拒絶を許さぬ意思がカツミを押し潰そうとする。

 幼い日の記憶が呼び戻された。どんなに泣き叫んでも、懇願しても、許されることなく蹂躙された記憶が。
 そこにいたのは無慈悲な悪魔だった。逃げることを許されず、服従を強要され、少しでも抗おうものなら、意識が遠のくまで暴力的に犯される。
 カツミは父の沈黙が恐ろしかった。無視されるくらいなら、痛めつけられるほうがまだ安心できた。自分が必要とされていると思えていた。

 ありありと浮かび上がる支配の刻印。もう戒めは解かれている。だがカツミには、抵抗する気力などない。

「元に戻るだけだ」
 言い聞かせるように呟くロイに、カツミはすっかり身を委ねていた。虚ろな瞳を見開いたまま、遠い日の呪縛に支配され、濡れた石の端に指をかける。
 その時、カツミのなかに確信が流れ込んだ。フィーアが見てる。見られている。背中に視線が突き刺さる。フィーアが涙をこぼして見つめている。けれどもう、自分は拒めない……。
 愛情と憎しみの対象をカツミは受け入れた。されるがまま。もうなぜとも思わない。この現実の意味をカツミは知っていた。

 ──父の支配からは逃れられない。自分は父を憎んでいた。しかしずっと愛情を求めていた。だがこれが現実だ。父は自分を憎み、どんな手段を使っても支配する。そして自分もまた、支配に抗えない。
 カツミの背に血が伝う。それはフィーアの墓石に落ちると、雨に流されて地中に消えて行った。


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如月ふあ
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