ONE 第二十話 水面の泡
次の瞬間、ジェイが手加減なしにシドの頬を張った。
表情も言葉も凍り付いたジェイを見て、シドは悟る。
──もう全て終りだと。
この一年。自分を偽りながら、必死に堰き止めていた憎しみの濁流。
しかしもう限界だった。これまで築いてきたものを、自分の手で突き崩してしまったのだ。
ジェイの脇をすり抜けたシドは、逃げるように部屋を出た。全てを失くし、死者よりも色のない顔をして。
「カツミ!」
解放とともに何度も咳き込んでいたカツミに、ジェイが手を伸ばす。だがその手は激しく振り払われた。
目を見張ったジェイを拒絶するように、色の違う双眸が鋭く突き付けられた。まだ痺れが残っているらしい。身体を震わせながら、カツミがジェイから距離をおく。
しばらく肩で息をしていたカツミが、ヒュウと喉を鳴らすとようやく声を絞り出し、困惑したままのジェイを急かすように鞭打った。
「行けよ!」
重ねて、必死の懇願が向けられた。
「行ってよ。頼むから」
咳き込んだ時にあふれた涙が、色の違う瞳からこぼれ落ちた。言葉もなくジェイがただ首を振ると、カツミもまた、頑なに首を振る。
「俺なんかよりずっと傷ついてる。分かってんだろ? なんでそんなに冷たくなれるんだ。俺を殺したいほど、ジェイのことが……好きなのに」
「でも」
ようやく言葉を見つけたジェイが口を開いた。
「でも私はお前しか見えない。お前しか愛せない。お前が死ねば、私は生きる意味を失くしてしまう」
途方に暮れたジェイの顔を見て、カツミは冷たいなどと言い放ってしまったことを後悔した。
──でも今だけは。
みずからの身体を抱え込み、カツミはうずくまった。ジェイを見てしまえば気持ちが揺らぐのは分かっていた。カツミの脳裏に浮かんでいたのは、この寮の屋上から飛び降りてしまったフィーアの顔。
今だけは拒まなきゃいけない。もう誰の心も身体も殺したくない!
「行ってあげて」
震える声がこぼれ落ちた。拒絶と懇願が。
「頼むから……行って」
声を絞り出すたびに、うずくまったままのカツミが、身体を硬くする。
ジェイにはもうカツミの行為の意味が分かっていた。自分の想いとの折り合いはつかない。しかしカツミを抱き締めると彼を追い詰めることになる。却って罪悪感を強めることになってしまう。
返事の代わりにジェイが立ち上がった。そして無言のまま、すっと部屋を出て行った。
◇
自室の床にシドは茫然と座り込んでいた。視界は薄闇の中にあり、そこからプツプツと小さな音が聞こえ続けている。
「どうして」
自分に向けられた苦い問い。どうして、あんなことをしてしまったのか。だがシドは思い直す。自分はこの日を恐れながらも、心のどこかで望んでいたのでは? 全てを捨てて解放されたいと願っていたのでは?
「言い訳だ」
思った端からシドは否定した。それは単なる自己保身じゃないか、と。
来客を告げるブザーが鳴った。一瞬びくりと顔を上げたシドだったが、再び膝に頬をもたせた。
二度。そして三度目のブザーが急き立てるように鳴った時、仕方なく身体を起こしてドアに向かった。一呼吸をおいてから、いつもの顔をつくる。
外の人物が誰なのかシドは知らない。だがドアを開けた時、思いもよらぬことが現実となった。外に立っていたのはジェイだったのだ。
困惑と動揺に立っていられず、シドがその場にくずおれる。慌てたようにジェイの腕がその肩を抱きとめた。
「すまなかった」
シドに巣食っていた暗い澱みは、その言葉で瞬く間に引いていった。
意識の奥底にある水面から泡粒のように浮かび上がった狂気。なにがそれを引き出してしまったのか、シドには分からない。しかし今はもう泡は全て鎮められ、鏡面のように静寂を取り戻している。
ジェイの肩口に顔を埋めたシドは、涙がシャツを濡らすのを感じていた。顔を上げることも声を出すこともできずに、強く瞼を閉じる。
だが。シドはすぐに平静を取り戻し、いつもの苦笑を浮かべた。狂気が去った後には、居心地の悪さしか残っていない。
顔を背けながらシドがジェイから身体を離す。そして小さく息を落とすと、馴染んだ口調で皮肉をぶつけた。
「カツミに追い出されたんだろ? 貴方はこんなに気のまわせる人じゃないものね」
涙の痕の残るうちに、そんな皮肉を言うとは。戸惑ったようにジェイが瞬く。だが彼もまた深追いはせずに、いつものように軽口を叩いた。
「当たりだ。よく分かったな」
そこにいるのはいつもの二人。本音を知りながらも、感情の一部だけを取り出してやり取りする二人がいた。
「当然だよ。それくらい分かる」
皮肉を重ねながらシドは心で呟く。分からないはずがない。ずっと貴方だけを見てきたのだから。自分は貴方を入れる殻。そこに貴方を満たすことだけが、自分の生きる意味なのだから。
シドの向けた苦笑いを、ジェイがそのまま押し戻した。再びぽつりと浮かんだ泡は、その笑みに全て潰されていった。
◇
珈琲(カッファ)の香りが部屋を満たしていた。
瑠璃色の珈琲は元々オッジで作られたものだ。
シドが簡易キッチンから戻ると、ジェイはソファーで煙草を喫っていた。カツミの前では決して喫わないくせに。そう思いながらも、シドは以前と変わらない紫煙の香に安堵していた。
「カツミにね、俺は親父の代わりなのかと聞かれたよ」
事のあらましを告げながら、シドが向かいのソファーに腰を下ろす。手渡されたカップの湯気がジェイの溜息で流れた。
「結局は騙してたんだと責められた」
「……」
「見えてないんだ。貴方も、もっと言葉を尽くさないとカツミには分からないよ。不安になるだけ」
カツミが心を閉ざすわけ。なんでも悪い方に捉えて、自分を追い込んでしまうわけ。シドの助言に、ジェイが話すのを迷っていた事実を切り出した。
「昨日の夜、カツミは墓地でロイに会っていた」
「墓地? 雨が降ってたのに」
「そう。その雨のなかでカツミはロイに犯されたんだ。しかもフィーアの墓の上で」
驚愕したシドの脳裏にカツミの顔が蘇る。言葉の裏にあった絶望に自分はまるで気づけなかった。
「カツミが言ってた。初めての相手は父親だったとね」
畳み掛けられた事実が、シドの罪悪感を煽った。
「カツミはどこまで自分を追い詰めれば気が済むんだ。あれは生きながらに死のうとしている。私が死ぬのを許すまで、抜け殻になるのを待っているんだよ」
煙草を揉み消すジェイの指は震えていた。
「誰の声もカツミには届かない。耳を塞いで泣くだけだ。どんなに酷い扱いを受けても当然の罰だと思っている。笑うことも食べることも眠ることも、自分を慰めることを全て拒んで、ただ待っているんだ。私がもう死んでいいと言うのを。そんなこと言えるはずもないのに」
ジェイの苦悩を黙って聞いていたシドが、そっと制止した。
「追い詰められているのは、貴方の方だよ」
ジェイの唇の前に手をかざし、微かな笑みを向ける。
「貴方はカツミに聞こえるように、こう言い続けてればいいんだ。私のために生きてほしいとね。簡単なことだ。どんなに迷って遠回りしても、その言葉があの子を生かすんだよ。貴方がその火を消さない限り、カツミはいつか気がつくよ」
これは同情なのだろうか。それとも償いか。ジェイがカツミを案ずる言葉が鋭い棘のように突き刺さる。なのにシドはもうカツミを恨むことが出来ない。恨みたいのに恨めない。
心からは血が流れている。その痛みに悲鳴を上げている。しかしシドは思っていた。もしジェイがカツミを傷つけただけで捨てていたとしたら、自分はこんなにも彼に執着したのだろうかと。
自分のなかに二つの気持ちがあることをシドは知っていた。ジェイを取り戻したいという欲と、彼を支えたいという理性。しかしその二つは相容れない。対極にある想いが常にせめぎ合う。欲に引かれれば狂気に、理性に引かれれば苦悩に。そこに安寧などない。それなのに自分は動けない。逃げ出してしまえば、全てを失ってしまうのだから。
自分の欲をジェイはとうに見抜いているだろう。数日前のキスを思い出し、シドは唇に指を触れた。
他人を責める資格などないのだ。みずから望んで、選んでいる今なのだから。
「帰ったら?」
なるべく穏やかにと思いながら、シドが口を開いた。その気持ちに反して、滑り出た言葉は辛口だった。
「こんなことしている間に、カツミは死ぬかもよ」
「そうなったら自分も死ぬだけだ」
臆面もなく切り返したジェイが、テーブルの上の煙草に手を伸ばした。その手をシドの手が押さえる。目を合わせたジェイにシドが問うた。
「ジェイ。自分はどういう存在なのかな?」
貴方にとっての……。
瞬きをしたジェイが乾いた答えを放った。シドにいつもの苦笑を浮かべさせるに足る答えを。
「昔の恋人だよ」
「そうだったな」
押えていた手をシドが引こうとした。だがその手は、今度はジェイによって捕らえられた。