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ONE 第二十一話 最後の歯止めを

 手を放したジェイは、テーブルをまわり込むとシドの隣に座り直した。同じ手を今度はシドの頬に添え、意地の悪い笑みを向ける。
「気づいてるか? 自分がどれだけ誘惑してるか」
「そんなの、受け取り方の問題だろ?」
 狼狽で返事が上擦っていた。確かにシドには自覚がなかったのだ。

「どうする?」
「殺すよ」
 困惑が拒絶の言葉に変わる。
 シドにはジェイの真意が分からない。つい先ほどまで、ジェイはカツミに対する苦悩を口にしていたのだ。なのになぜ、自分を試すような真似をするのか。
「いまさら命なんか惜しくないよ」
 ジェイの言葉はいつも通りに乾いていた。不条理とも言える現実。だがジェイには受容済みのことらしい。当面の興味は自分に向いているらしい。

「キスされたくないか?」
 ジェイの物言いは昔と少しも変わらない。自分の返事を既に分かっているように、顔を横に向けると眼鏡を外した。
「今の恋人に殺されたくないよ」
「じゃあ、今だけの恋人ってのは?」
 皮肉ったつもりが逆手に取られた。これほど一方的に押し切られたことがあっただろうか。見つめたジェイの淡い瞳の中に、困惑と期待の入り混じった自分がいた。

「お前の困った顔が気に入ってると言ったらどうする?」
「困らせるためだけに、そういう言葉を並べるもんじゃないよ」
 期待をしてしまうから──。
 瞼を閉じると、ジェイが甘く唇を噛んでから口づけた。逃れる舌をとらえると痺れるほど吸い上げる。どうかしてる。残酷に切りつけてしまった魂があることを知りながら、欲望に身を任せているなんて。
 ──でも、お前はそれを拒めない。
 思い出したのは先日のジェイの言葉。とうに見抜かれている。自分が彼の言葉に、なに一つ背けないことを。

 柔らかなジェイの黒髪が頬をくすぐる。耳朶に滑った唇がカチリとピアスを噛んだ。
「赤い石だな」
「ザクロ石。豊穣のしずくとも言うんだよ」
 これまでピアスなど気にしたこともなかったのに、カツミの瞳でも思い出しているのだろうか。だったら明日から、右をトパーズにしてやる。
 自虐的な企みを思いついて、ようやくシドはジェイのしぐさに身を任せると決めた。

 口づけは瞼に眉に、昔のそれよりも穏やかに続く。カツミに対する施し方が分かるような気がして、シドが薄く瞼を開けた。思った通りにじっと覗き込んでいたジェイが、ベッドに視線を送る。
 これは逃避だよ。拒絶の言葉は口に出す前に飲み込まれた。たとえひと時の慰めに過ぎなくても、それに喜びを感じられるほど自分はこの日を待ち侘びていた。ならば、それを拒絶する理由などどこにもない。

 立ち上がったシドが部屋の灯りを落とす。そして、薄暗がりのなかにいる相手にしか聞かせて来なかった甘い声をもらした。
「困った顔なんて見せたくないからね」
 基地の闇を巡るサーチライトの光がブラインド越しに射し込んだ。斜めに切られた光が、獣が獲物に向かって放つような眼差しを炙り出していた。

 ◇

 猥褻な音をたてて舌を噛まれたシドが眉を寄せた。強く瞼を閉じ、あふれ出す快楽を必死に抑え込む。だがシドの抵抗はすぐに崩された。ふっと目を細めたジェイが、今度は胸に歯をたてるとシドから嬌声を引き出す。
 ジェイの頬が柔らかな腹部に押し当てられる。焦らしているのか甘えているのか分からないしぐさ。次の行為への期待を煽るような。
 やがてシドは、どんな痛みも快楽にされてしまう。どんな屈辱も欲すように。支配されることが陶酔となり、翻弄されることが歓喜となる。

 ジェイの背に手を伸ばしたシドが、布越しに背骨を辿る。しかし指に触れた感触が気になり、高揚した意識がすっと遠のいた。
「ずいぶん痩せたね」
 シドが思わず漏らした悲嘆。動きを止めたジェイから慈しむような口づけが戻された。小さな問いとともに。

「あと、どれくらいだ?」
「分からないよ。そんなの」
 残された時間を問うこと。もちろん問う側が辛いに決まっている。だがそれは、聞かされたシドにとってあまりにも残酷な仕打ちだった。

 見えない何かにシドは願う。今だけは、欲に駆られる自分を赦してほしい。それが、身の置き所のない苦しみに耐える光になるからと。

 ジェイはいつも快楽に翻弄されるシドを見て楽しむ。注がれるのは冷たい視線だ。シドはこれまでずっとそう思ってきた。しかし今は違う。その眼差しのなかに形容しがたい感情が見て取れるのだ。迷いなのか、哀しみなのか、慈しみなのか。ジェイが変わったのか、それとも自分が変わったのかは分からないが。

 ジェイに抱かれることは、こんなに切ないことだったのか? 欲望に溺れる身体から引き剥がされた意識は、遠くの闇に連れ去られていった。
 嘲笑う声がする。この愚か者めと責める声が。身体を一つにしていても、その断罪はずっと止むことがなかった。

 ◇

「シド」
 ひと時の熱が冷めた頃。ジェイの小さな声が響いた。
 振り向いたシドの横でしばらく黙り込んでいたジェイが、何か言おうとしてはその度に口をつぐむ。
「どうしたの?」
 焦れたシドの問いに追い詰められ、ジェイがためらいがちに口を開いた。

「もう退官願いを出した。受理されれば、今月中に特区を出て南部に移る」
「今月? 南部って、入院はしない気なんだね」
 特区のある中央区。そこから南に下った地域にミューグレー家の別邸があった。別邸はいわばジェイの家。しかし、別荘地である南部に終末医療のできる入院施設はない。
「シド。頼みがある」
「なに?」
 次の言葉をシドは知っていた。だが、ジェイの口から聞きたいと思っていたのだ。

「カツミのことを頼む」
 思った通りだった。ジェイは自分の死期を確信した時から、カツミを生に引き留める楔(くさび)を探していたのだろう。カツミが生きていく意義をみずから見出せるまで、そのいのちを守る者を。そしてジェイはもう延命治療をしないと決めているのだ。

「他に頼める相手がいないんでね」
「むしがいいね」
「だよな。狡いな」
 残酷な言葉だ。そう思いながらも、シドには拒むすべがない。自嘲をこぼしながら、ジェイが言い訳のように再びキスを落とす。

「好きだよ、ジェイ。愛してる」
 これが最後の告白になるだろう。そう思いながらシドが告げた。返事はない。しかし背にまわされた腕にわずかに力が込められたのをシドは感じていた。

 ◇

 カツミの部屋に戻ったジェイは無人の部屋を一通り見回すと、床の上に電話の子機を見つけた。履歴を残さない機種だが、端末から操作すれば確認できる。表示された相手は、ロイ・フィード・シーバル。

 ジェイは迷う事なくロイの宿舎のある中央管理棟に向かった。誰にも渡さない。それがたとえカツミの父親であっても。自分の想いは誰にも遮ることはできない。
 ジェイには立ち止まっていられる時間など片時もなかった。