ONE 第五話 反発心と興味
カツミがジェイを必要とし、ジェイがカツミを守る理由(わけ)。シドはそれをよく知っていた。出会いから先の一部始終を見ていたからだ。
シドの記憶が過去の一点に捕まる。感情が黒いメビウスの輪を描き始める。『あの冬の日』を境に、全てが変わってしまったのだ。ジェイとカツミの関係は必然に。シドにとっては悪夢へと。
◇
私はいつも『いい人』を演じている。十年も恋人だったジェイに振られても、その辛さに蓋をして、やはり『いい人』である自分を保っていた。本音を見せることが怖かったのだ。そして案の定、本当の私はずいぶんと嫉妬深い、弱い人間のようだ。
一年前。カツミは入隊直後から周囲の反感をかっていた。ジェイもカツミに興味は示したものの、その視線は冷めていた。最高責任者の息子。注目に値する人物だが、それ以上でも以下でもない。ジェイが見ていたものは、色褪せた写真と同じだったはずだ。
私はそんなジェイを見て、ほっとしていたのだ。
ジェイは特権階級に属し、子供の頃は神童と呼ばれていたという。士官学校すらスキップで卒業したような人物だ。特区百年の逸材。そんな人に惹かれないわけがない。
知的でエレガント。そして狡い優しさの持ち主。一年前まで、私はジェイの恋人だった。公には出来ない秘密の関係だが、十年という歳月を共にした最愛の人。
だが……。一年前の冬の日、ジェイの世界が一変した。
日頃のジェイは、常に冷静で乾いた態度だった。他人とは生きる速度が違うような人物なのだ。天才と呼ばれた彼には、手に出来ないものなど何ひとつなかったのだから。
しかし、あの夜のジェイはまるで別人だった。
ジェイには、日頃のような余裕が全くなかった。握ったこぶしをぶるぶる震わせ、向ける先のない怒りの言葉を、処置室の壁にぶつけ続けた。
そして、何度も擦り損なったオイルライターと湿った煙草を床に投げつけると、黙したままドアの向こうに消えた。
あの人に会うために。もう十年も避けていたあの人に会い、事の始末を頼むために。
ジェイがいなくなった処置室で、私はカツミの手当てに追われていた。ひと言も口をきかないカツミの、心と身体をなんとか救おうと。泥と血の匂いの中で、滲み出る不安を心の隅に押しやりながら。
カツミの全身は打撲で腫れ上がり、低体温となっていた。特殊能力者ゆえに意識は保たれていたが、表情は凍り付いたまま。見開かれた目には何も映っておらず、こころが死んでいたと言ってもいい。
とにかくこの窮地をしのがなければ。それも秘密裡に。他人に知られるわけにはいかないのだ。こんなことが公になると、カツミは特区にいられなくなる。
それからひと月後。カツミの怪我がかなり癒えた頃に、ジェイから別れを告げられた。ジェイはカツミを守ると宣言し、言葉通りに全身全霊をかけて愛情を注ぎはじめたのだ。
別れを切り出された時には、それほど動揺を感じなかった。カツミは庇護されるべき人物、私はジェイを支える立場、それでいいのだと。ジェイが決めたのなら、何があっても覆らない。ならば、彼の一番の親友でいればいい。
だが現実はまるで違った。私は自分の心に嘘をついていたことを、すぐに思い知らされたのだ。
私の持つジェイへの想いは、日増しに募るばかりだ。諦めることなど出来ない。いつかは取り戻そうと思っている。
こんな子供相手に認めたくはないが、カツミは確かに私の恋敵なのだ。
◇
シドは、黒く濁った感情の沈殿を待てなかった。
「カツミ。フィーアの家族のことは知ってるか?」
「知らない。どういうこと?」
慎重に間をおきながら口を開いたシドに、カツミが美しい瞳を向ける。シドは用意していた言葉をかけようとして、開きかけた口を一度閉ざした。足元で潮が満ちるように迫っていた闇が、顎を上げてそそのかす。
自分の言葉でカツミが踏み止まるのか、それともあらぬ方向に走り出してしまうのか。シドには予測がつかない。分からないのだ。毒になるのか、薬になるのか、どちらに転ぶのか。だがその時のシドは、被り続けていた仮面(ペルソナ)を引き剥がされていた。
「少し前に母親が亡くなったんだ。彼には元々父親がいないから、一人きりになったんだよ。カツミが興味を持つ気持ちも分かるけど、今はよすべきだ。フィーアのことを却って傷つけるかもしれないからね」
重い事実がドサリと落ちた部屋。はじめは驚いたように息を飲んだカツミの顔が、みるみる怒りに歪んでいった。むき出しの怒りに触れて、シドは策の落ち度に気づく。だが、言ってしまった言葉は取り消せない。
「二人して関わるなって言うけど、ずいぶん意味合いが違うんだな」
「どういうことだ?」
「ジェイは独占欲で関わるなって言ってんだろ? でもあんたは、同じことを言ってても俺をけしかけてるじゃないか! それでジェイを裏切らせて、どうしたいんだよ? 元のさやに納まろうってんのか?」
残酷に真っすぐにカツミがまくし立てた。事実を。ありのままを。シドの押し殺した本心が、カツミという鏡にまざまざと映し出される。
「……かもな」
シドが瞼を伏せた。立ち上がったカツミが、荒々しく医務室を出て行く。
蓋は開いていたのだ。見破られるほど追い込まれていた。シドの想いは、未練などという言葉では到底足りなかった。ジェイは彼の全てなのだから。
奪われた一年のあいだ、シドは自分に嘘をつき続けていた。みずからを騙すことで心の傷から目を逸らして。
◇
既にひと気もまばらな自走路の上。カツミが足元に溜息を落とした。投げつけてしまった言葉に嫌気がさしたのだ。カツミには分かっていた。自分がシドに恐れを抱いていることが。
自分は彼からジェイを奪った。それなのにシドは態度を変えずに接してくれる。理知的に、個人的な感情を交えずに。
カツミは思う。自分がシドの立場であれば、とてもあのような態度は取れないと。あんな大人にはとても勝てないと。だから、傷つけると分かっていながら攻撃を向けてしまったのだ。相手の気持ちも考えず。自分の心を守るためだけに。
シドの策にはめられているのも、カツミには分かっていた。関わるなと言われれば言われるだけ反発してしまう。人間はそういう生き物だ。
カツミはずっとフィーアのことが知りたかった。彼の持つ何かが自分にとてもよく似ている。その正体を知りたいのだ。
シドに本心を見破られた気がした。見透かされていると感じた。その言い訳のために彼を攻撃してしまったのだろうか。裏切りを誤魔化すために。
カツミの足が止まった。すぐそこに自室がある。
だがドアの前には──。
カツミを縛っていた何かが、大きな音を立てて崩れていく。俯いていた人物が、ゆっくり顔をあげた。コマ送りの映像のように。
フィーア・ブルーム。まさに、その相手が。
◇
「話があるんだけど、付き合ってくれる?」
フィーアはそう告げ、返事も待たずにエレベーターホールに足を向けた。黙って従うカツミを振り返ると、ふっといつもの笑みを寄越す。
カツミの気が変わるのを恐れるようにフィーアは足早に歩き、地下通路を乗り継ぐとひと気のない研修棟に入った。
廊下の端から青い照明が漏れ射す、無機質だが幻想的な場所。
遅い時間である。どの部屋も無人だった。白い壁に二人の影だけが儚げに揺れる。ゆらゆらと。カツミの心のように。
カツミは動揺していた。反発心と興味をない交ぜにしたまま、勢いだけで突き進んでいることに。一歩、歩を踏み出すごとに、大切な人との約束を踏みにじっていることに。
だが、彼の足は止まらなかった。