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ONE 第三十四話 欠片と誓い

 薪が爆ぜる音だけに支配された部屋。ゆらゆらと蠢く炎。琥珀色の灯りのなかで壁に踊る炎の影絵。
 光と闇。時おり叫ぶ炎の熱と、黙したまま忍び寄る寒気。この世の全てはみな生死の対比だとジェイは思う。

 生死を一対としたオッドアイ。カツミの瞳はジェイに教えている。いのちの意味を。死の意味を。それらが常に、ひとつ繋ぎであることを。

「カツミ」
 ジェイが声をかけると、カツミが身じろぎをした。振り仰いだカツミを、ジェイが少しだけ睨む。

「気づいてたの?」
「キスした時、息を止めただろう?」
「ジェイも人が悪いよな」
「それはお互いさまだな」
 悪びれた様子のないジェイに肩を竦めたカツミは、すぐに素直な気持ちを手渡した。

「ジェイの言葉、嬉しかった」
 伸ばされる手のひら。頬ずりと羽根のようなキス。包み込む優しさ。それはジェイの持つ狡い優しさだった。
 カツミにはまだ、優しい嘘をつくことも本心を隠すことも出来ない。せいぜい狸寝入りをするくらいがいいところだ。

「ジェイ、ドクターのことどう思ってんの?」
 カツミが真っすぐに訊いた。逃れようのない問いに、困惑するジェイ。だが、カツミの質問はとまらない。
「好きなんだろ?」
「好きか嫌いかだったら、好きだと答えるな」
「ずいぶん冷たいね」
 カツミは思う。シドは、自分を殺そうとしたほど強い葛藤を抱えているのだ。それを抑え込んで身を引く気持ちなど、到底分からないと。
 カツミの世界にはまだ白と黒しかなかった。人の感情が、それらの濃淡で出来ているのがよく分からない。

「俺がドクターだったら、ジェイなんて忘れるよ」
「本当に?」
 ジェイの目が意地悪く細められた。いつものように口角を上げ、含み笑いとともに確かめる。
「本当に忘れられるのか?」
「全く、どっからそんな自信が生まれてくるんだよ」
「さてね」
 カラクリを知りたかったカツミだが、ジェイは笑みではぐらかした。カツミに余計な色はいらないと。
「私は自分に素直なだけだよ」
 善悪のなかにも正否のなかにも、多くの不純物が混ざっている。しかし、真っ直ぐなものには真っ直ぐに返せばいい。カツミに迂遠な言葉はいらないのだ。
 濁り切った世界のなかでも、カツミだけは透明でいられるのだから。

「この五日は長かったよ。電話を我慢するのもね」
「結局、かけてこなかったくせに」
「私は意地っ張りなんだ。始末に負えないくらいにね」
「ふうん」
 別れの助走をつけているのは、カツミにも分かっていた。しかし、一人の夜は辛かった。

「俺、全然眠れなかった。一人だとまるで駄目だ」
 小さいあくびを連発しているカツミを、ジェイが優しく見つめる。もう添い寝をねだられても、応えることが出来ない。カツミが自分で折り合いをつけるしかないのだ。

「年明けに休暇が取れると思う。ここに来ていい?」
「悪いなんて言うと思うか?」
 目を細めたカツミにジェイも笑顔を揃えた。貴重な時を押し留めるために眼差しを捉え合う。

 カツミは、ほんのひと月の間に嵐のように押し寄せた出来事をつぶさに思い返す。
 こんな現実に追い込まれなければ、もっと回り道をしていた。自分の本心など知ろうとしなかっただろう。
 嵐のなかで自分の得たものは、たったひとつだった。しかしそのたったひとつが生きる指標になる。羅針盤となり、道筋を照らす灯りとなるのだ。
 カツミがジェイの手を引き寄せキスをした。いつも癒しを与えてくれた指に、偽りのない本心を注ぐ。

「ジェイに会えて良かった」
 ──いのちに会えてよかった。
 それが、カツミの得た、たったひとつの真実だった。

 ◇

 促されるままベッドに横になったカツミだったが、あくびを噛みしめながらも顔を上げていた。ジェイは急ぎの書類を仕上げているらしく、端末の前から動かない。

「なにしてるんだ?」
「くだらないことだよ。財産の名義変更書ってやつだ。さあ出来た」
 書類にサインをしたジェイが、それを封筒にねじ込んだ。眉を寄せるカツミの額には、すかさずキスが落とされる。
「お前が怒ってどうする?」
「そりゃそうだけど」
「弟もせっかちだからね。まあ、義務ってやつだ」
「俺にできることないの?」
 カツミは思う。どんなことも淡々と終わらせてしまうジェイでも、誰にも言えない悩みがあるはずだと。
 だがジェイの望みはカツミが生きて自分を受け入れること。それだけなのだ。リクエストをさらっと脇に置いたジェイが、カツミの唇にキスをして隣に横たわった。

「こうやって会いに来てくれるだけで十分だよ」
「ほんとうに?」
「他はなにもいらない」
 温かな眼差しを見つめ返したカツミが、不思議そうに問い直した。
「俺のどこがいいんだ?」
「ははっ!」
「なんでそこで笑うんだよ」
「今さらそんな質問をされるとはね」
「だって、訊かなきゃわかんないし」
「言葉なんかじゃ足りないよ」
「むぅ」
 カツミへの想いは言葉になど出来ない。そう思いながらもジェイは言葉を紡ぐ。忘れ去られない限り、言葉はカツミの背中を押す。いのちそのものになっていく。

「お前はいつも私の思考を超えていくんだよ。自分でも気づいてなかった本心を炙り出されるんだ。まるで鏡みたいにね。カツミは私の代わりに飛んでくれる。私の欲しかった欠片になってくれる。私だけじゃない。もっと多くの人の欠片を指し示すはずだ。カツミは特区にとって、なくてはならない存在になるよ」
「すごく買い被ってるように聞こえるけど」
「そんなことないさ」
「ジェイの欲しかった欠片ってなに?」
「いまここにいるよ。この腕のなかに。カツミの持ってる可能性だ」

 ──守る者、ジェイ。特殊能力者ではないジェイに、予知能力はない。だがカツミの持つ可能性を一番初めに見抜いたのが彼だった。
 カツミは心さえ解放すれば多くのことを変えていく。特区にとって、つまりは国にとっての鍵となるのだ。それはジェイの願いであり確信だった。

 瞬く間に過ぎていく時間。たくさんのものを犠牲にして、ようやく得た時間。決して止めることの出来ない、貴重な時間だった。
 カツミの瞳がジェイの瞳を捉える。その印画紙にくっきりと記憶を焼き付けるために。ジェイの想いを自己の鏡に映すために。

「ジェイのこと好きだよ」
「ずっと?」
「ずっと好きだよ。ずっとずっと好きだよ。誓うよ」

 その誓いはカツミにとって全てを越えるものだった。
 これから何年経ったとしても、ジェイを忘れてしまえば生きていけない。
 縛られるのでも、囚われるのでもない。ただ忘れられない。ジェイを忘れなければ、自分は生きていける。

 ──誓うよ。
 死を超えて生を得る。ジェイの想いはこの先もずっとカツミのなかに残る。ジェイはカツミにとっての永遠の拠り所。カツミのなかにいのちの色を映した人物。
 ジェイには知る由もなかったが、彼は束ねるものの願いを叶える存在となっていた。