ONE 第十九話 過去と狂気
「もう、十年は昔の話だけど」
カツミの隣に横になったジェイが、天井を仰ぎながら口を開いた。灯りを落とした室内。時おり差し込むライトは、遠い日を映す幻燈。抑揚のない静かな昔語り。
「私が今のカツミと同じ少尉で、あの人が大佐だった。その頃、私には婚約者がいてね」
カツミが息を飲む音を聞き、ジェイがふっと目を細める。記憶を辿るように。視線は上げたまま。
「七歳も年下の少女だ。一度も会ってない。でもそれは破談になったんだ」
この時代に政略結婚がまかり通っていること自体、カツミには信じられなかった。家族関係が希薄な彼には、血を繋ぐという意味すら分からない。
カツミの血族は父親だけ。フィーアのことを知るまでは父以外の血縁者は誰一人いなかった。カツミは父から祖父母の話どころか母親の話すら聞いたことがない。
「ロイとは違う所属だったけど、顔はよく合わせてたんだ。彼の実力には羨望すら感じてたよ。あの日、任務明けに研究室に呼ばれるまではね」
ジェイの言葉はよどみなく、淡々としていた。
「特殊能力で押さえ込まれて、初めてロイの考えを知ったよ。抵抗したな。プライドが馬鹿高いからね」
ジェイが浮かべる冷笑は自身に向けられていた。当然の抵抗を、馬鹿なことをしたとでも思っているように。
「ロイは私に殴られて能力を制御し損なったんだ」
カツミに向き直ったジェイが、問いをもてあそんだ。
「どうなったと思うか?」
「もしかしてあの施設? 小規模爆発があって造り替えたっていう」
それは的確な洞察だった。カツミは十年前にこの基地であった事故を知っていたのだ。頷いたジェイに質問が重ねられた。
「でも俺は、実験機の誤作動が原因だって聞いたよ」
「対外的にはね。事実を知っているのは、ほんの数人だよ。実家は情報企業だし、特区にも太いパイプがあるんだ。だから、ちょっと手を貸してもらった」
ジェイは笑みすら浮かべていた。他人事のように。諦念や達観すら感じさせるほどに。
「爆発といっても、実験機のある部屋だけで済んだんだ。ただデータの保護が危なくなってね。ロイがそれを防いだんだよ」
「それが親父の昇進がはやい理由?」
「まさか。実力だよ」
カツミの指がさらりとした黒髪に伸びた。応えるようにジェイが眼鏡を外す。
「これが、その時の傷だったの?」
「ああ」
今ではほとんど分からない小さな傷。しかしこの傷を見るたびに、ジェイは過去を思い出していたに違いない。カツミがすぐに質問をぶつけた。
「被爆しなかったの? 親父はシールドできるけど」
これだけの話で、今に繋がる核心部分をさらりと類推してしまう……。誤魔化しのきく相手じゃないな。感心しつつもジェイは複雑な心境になっていた。
カツミは士官学校を首席で卒業した飛び抜けて優秀な人物なのだ。抱える自己否定さえ解消できれば、もっと才能を発揮できるのに。
「そう。だから家の後継者から外された。婚約も破談になった。跡継ぎを残せないからね。フライトも出来なくなった。それで研究職に変えたんだよ」
──原因を作ったのは自分の父だった。その犠牲者であるジェイが、唯一の拠り所となっている。カツミにはもう、返せる言葉がない。
「お前は誰にも渡さない。お前の父親にも。でも」
ジェイの腕がカツミを包む。まるで全てのものから覆い隠して守ろうとするように。
「でも死者にはなんの手出しも出来ない。フィーアがお前を連れ去ろうとしても、見ていることしか」
ジェイの言葉がふいに途切れた。
「ジェイ?」
「もう眠ってもいいかな。少し……疲れた」
安心させるようにジェイがカツミの髪を撫でる。だがすぐに静かな寝息が聞こえ、カツミは取り残されてしまった。
◇
『代償と憎しみとエゴ』。耳に残る父の言葉。
当然だ。これほど人生を狂わされて、代償を求めないほうがおかしい。
やっとの思いで堪えていた涙が、カツミの頬を伝う。
自分は償いのための存在なのか。それとも父の代わりか。しかしジェイから憎しみの言葉はなかった。淡々と事実が語られただけだ。
父は今でもジェイを気にしている。そしてジェイも父を過去にはしていない。夢の中で名前を呼ぶほどに。
では自分は? 自分の気持ちは? 自身に問いながら、カツミはジェイの胸に顔をうずめる。
ジェイが自分を必要としてるんじゃない。自分がジェイを必要としているのだ。こんなに罪深いのに。
なんて愚かなのだろう。思い上がりにも程がある。求める資格などどこにもないのに、失いたくないなんて。
けれど。それでもまだ、自分は疑問を持っている。ジェイの愛情のわけ、その真意に。こんなに注いでもらいながらも、疑いを消し去ることが出来ない。
「ごめんね。ごめんね、ジェイ」
あまりに悔しかった。歯がゆかった。混沌に染まれない透明な鏡。真実を映す資質。それがカツミのこころを責めていた。
◇
翌日の午後。診察のためにカツミの部屋を訪れたシドは、いきなり挑むような視線を向けられた。どろどろとした胸の澱みが掻き乱され、かろうじて保たれていた上澄みすら真っ黒に濁っていく。
「ジェイに聞いたよ。親父とのこと」
「で、ご感想は?」
「教えられたところで、どうなるものでもないけど」
「けど、なんだ?」
「俺は親父の代わりなのか?」
シドの口端から溜息が落ちた。カツミの言葉が予想通りだったからだ。
弱みを抱えると人は脆くなる。虚勢を張ることで自分を守っていたカツミが、こんなに無防備に自分を曝け出している。
そして自分を見失い、周りを巻き込み、何もかも根こそぎ押し流してしまう。堰を切った濁流は留まることを知らない。
「ジェイは今でも親父のことが好きなのか? 忘れられないのか?」
「カツミ」
「俺は、親父の罪を償うための代償なのか?」
シドもまた、最初は同じように思っていた。カツミは単なる生贄。決定的な傷を負わせて捨てるための存在。不条理な定めを課したロイに復讐を向けるための。
しかし現実はまるで違った。明らかにジェイは変わったのだ。その変化を自分は受け入れるしかなかった。
ただの意地だったのかもしれない。しかしジェイだけを見つめ、ジェイだけに許してきた自分には、彼から離れる選択肢などなかった。ジェイは自分の全て。彼を穢すことは誰にも許さない。
なぜ? シドはそう思っていた。
なぜカツミには見えないのか。ジェイの、自分にとって全てに等しい彼の愛情を一身に受けているのに。
なぜ気づかない? なぜ信じることが出来ない?
なぜ!
……だめだ。
感情の掛け金は既に錆びていた。しかしそれを壊してしまっては、何もかも失ってしまうとシドは自分を戒める。カツミには時間が足りないだけなのだ。ジェイを知るための時間が。
だが一方で別の声がシドに囁いた。時間だと? なぜ、それまで待たねばならないのか。あとどれくらい残されているかも分からないのに。
「結局、騙してたんだ」
次にカツミが呟いた言葉が、抑えに抑えていたシドの感情に火をつけた。彼がもたれていたドアから身を起こすと、ゆっくりとカツミに近づく。
誰か止めてくれ。でないと……。
だが理性の鍵はすでに壊れていた。次の瞬間にはもう、シドの指がカツミの喉元深く食い込んでいた。
「なぜ、疑うんだ!」
狂気をはらんだ瞳がゆらりと光る。
シドがカツミを押し倒し、体重の全てをかけて押さえ込んだ。
カツミは初め、指を掻きむしり足をばたつかせた。だがすぐに抵抗を捨てた。首を絞め上げられ、その顔が見る間に鬱血していく。
シドは本気だった。カツミの特殊能力のことは完全に忘失していた。そしてカツミは、自分を殺そうとしている相手にすら封印した能力を解かなかった。
「なぜ、あの人の声を聞こうとしない!」
みずからの視界も真っ赤に染めながら、シドが心で叫ぶ。
──彼の愛を全て。全て奪っておきながら!
カツミが動かなくなった。
我に返ったシドが恐怖にかられて手を離した時、開いたドアの向こうにジェイが立っていた。