ONE 第十六話 ロイという名の人物など
『ロイ……』
ジェイの声を聞いた気がしてカツミは目を覚ました。
夜明け前。窓の外に見える空は、漆黒に沈んでいる。首を回すと、ベッド脇に座ったジェイが自分の手を握ったままうたた寝をしていた。
仄かな室内灯を受けたジェイの顔はやつれて見える。かけたままの眼鏡を外してあげようと、カツミが手を伸ばした。彼の視界に入ったのは、瞼に残る傷痕。
ジェイは怪我によって左目の視力をほぼ失っている。カツミは、ジェイの転属理由が目の障害であることは聞かされていたものの、その原因までは訊けなかった。
撃墜王を期待された人物が、研究者に甘んじているのだ。触れられたくないことだろうと思っている。
カツミのパイロットとしての才能は天性のもの。しかし、個人的な指導者であるジェイの影響も大きい。
二人が最初に出会ったのは、この基地のシミュレーションルーム。入隊当初、カツミは毎日のように自主訓練に勤しんでいた。任務時間後も、そこは遅くまで開放されている。カツミのように進んで訓練する新人がいるためだ。
元々素質のあるカツミは、何度も新人離れした高得点を叩き出していた。その様子を偶然見かけたジェイが、対戦を申し込んだのだ。
結果はジェイの勝利。圧倒的な実力差にむっとしたカツミに、勝利者が追い打ちをかけた。
「腕は認めるけど、これじゃ死にに行くようなもんだ」
カツミの腕はいい。だが機体性能を十分に引き出せていなかった。いくら速攻が得意でも、加減速が力任せで機の動きに無駄が多い。荒っぽい操縦でも撃墜率が高いのは間違いなく才能ゆえだが、実戦はシミュレーションとは違う。常に余力を残しておくことが必要なのだ。体力はもちろん、精神的な面でも。
ただ、ジェイの知らないこともあった。
カツミの特殊能力ではG耐性を度外視できたのだ。その上、カツミの能力開発は途上だった。もし『聞く者』の能力が完全に発現すれば、彼の索敵能力が機体のレーダー性能を凌駕することになる。
機体性能を引き出せていないのではなく、機体性能が能力者に追いついていない。それが、カツミの空回りの原因である。
能力者ではないジェイには分からないこと。しかし、ジェイの思考はカツミより何倍も現実的だった。その差がもたらした結果は歴然。それでもカツミは、ジェイの指摘を素直に受け入れられない。馬鹿にされたように感じたのだ。
子供っぽく唇を尖らせ、むくれ顔になったカツミは、ありえない捨て台詞を投げつけてジェイを絶句させた。
「べつに。生きて帰ろうなんて思ってないから」
◇
ジェイに片手を握られたままのカツミは、窮屈に手を動かして、なんとか眼鏡を外した。細いつるをたたんで枕元に置く。
『ロイ……』
カツミの脳裏で目覚めた時と同じ声がした。それがジェイの思考だと気づいた彼は息を飲む。ごくたまに起こる『聞く者』の能力。意識して封じていても、声が飛び込んでくることがあるのだ。
「ロイって」
カツミの脳裏を過ったのは、つい先日の執務室。
ロイ。ロイ・フィード・シーバル。それは紛れもなくカツミの父親の名前である。しかもロイという名は日頃省略する愛称。この名前を特区で知るものはいないはずだ。
『ジェイ・ド・ミューグレーには気をつけることだ』。
父親の警告めいた言葉を思い出す。
確かにジェイとの関係は隠し通せない。相手が父であれば、なおさら。でもあれは、体裁を気にして口にした言葉ではない。もしそうなら、気をつけろとは言わなかったはず。
自分の知らない何かが二人の間にあるのか。だとしたらなぜ、ジェイは黙っている? 言えないようなことなのか? まさか。考えすぎだ。ロイという名の人物など、特区だけでも……。
直視できない仮定を全て打ち消すと、カツミは眠っているジェイに声をかけた。
「ジェイ!」
疲れきっている相手を起こすことに罪悪感を覚えた。しかし不安はそれを上回っている。
「ジェイ。ジェイ!」
揺り起こされたジェイは、眼鏡がないことに違和感を覚えたのだろう。すぐに自分の顔に手をやった。そのしぐさに、くすっと笑ったカツミを睨んでから、見つけた眼鏡を取ってかける。
「ごめん」
「まったく。まさか眠りこむとはね。その分だと少しはいいのか? 覚えてないだろう。夜中に来たのなんか」
カツミは返事をしなかった。今さらだが、かなり恥ずかしい状態だったのは、しっかり覚えている。
「ドクターが9ミリアに診察に来るそうだ」
ジェイがシドの伝言を復唱すると、カツミがぴしりと拒絶した。
「断ってよ」
「カツミ?」
「見たくない。あいつの顔なんか」
溜息をついたジェイが、カツミをたしなめる。
「向こうは仕事。お前には診察を受ける義務があって、今日の欠勤はドクターの指示だと言ったら?」
カツミは口をつぐみ、何かを思案するように視線を上げた。
「カツミ?」
「いま、何時?」
唐突な問いに苦笑しながら、ジェイが腕時計に視線を落とす。
「5ミリア少し前だな」
「来て、ジェイ」
「カツミ?」
「やろう」
腕を掴まれたジェイが当惑する。ためらった彼をカツミが睨む。
「こんな恥ずかしいこと、何度も言わせっ……」
ガタリと音をたて椅子から立ち上がったジェイが、唇で言葉を遮った。ジェイには誘いを断る理由がない。彼にとってのカツミは、求められた以上のものを与えたくなる存在なのだ。
ジェイの唇がカツミの腕に滑る。いつもの場所に残される赤い印。それはジェイがカツミに捺す所有の証だった。ずっと自分の腕の中で囲い込み、独り占めにしたいという欲望の象徴。その願いが叶う日は来ないと、ジェイは知っている。しかし彼は求めずにはいられない。
ジェイの腕の中でカツミは思い出していた。自分がジェイを想いながらフィーアを抱いたことを。フィーアはそれに気づいたのだろうか。だから屋上から飛び降りた?
こんなしぐさひとつで自分はフィーアを思い出す。ジェイもまた、それを察するのだろうか。そして自分から離れて行ってしまうのか? これまで幾度も不安に苛まれ、眠れずに過ごした夜がまた巡ってくるのか。
カツミは思う。この予感が現実となった時、自分はどうするのだろうと。今はこんなに近くにいるのに。こんなにもジェイのことを感じているのに。
目頭が熱くなるのを必死に堪える。しかしすぐ、涙に視界が閉ざされた。こうして何もかも委ねている時ですら、不安はカツミを掴んで離さなかった。
◇
「貧血。脱水症。栄養失調。肝機能障害。重度の不眠症。よくもまあ。お前、ほんとに軍人か?」
思いつく限りの暴言を並べ、点滴を追加しながら、芳しくない診断名を次々と上げるシド。持ち込まれた小型の分析機は、要加療の結果を出していた。
「なら、血を抜くなよ」
採血管を指さしながらカツミがぼやくと、点滴漏らすぞとシドが脅しにかかった。渋々口を閉ざしたカツミが拗ねた顔に変わる。
「少しは落ち着いたか?」
「まあ。それなりにね」
カツミはシドの診療を無視できる立場にない。頷きを返すなり、強がりに混ぜて本音をこぼした。それを聞いたシドは、やり切れない思いとなる。
「カツミみたいに、自分を責めてしまえたほうがいいのかもな。私は言い訳ばかりさ。口にしないだけだ」
「ジェイに頼まれて?」
「そう。手を貸した。騙して呼び出す役どころだ」
「ひどい医者だな」
「自覚はしてるさ。だから共犯者ってところかな」
「それって、慰めてるわけ? 俺のこと」
シドからの返事はない。点滴の時、カツミの寝衣のそでを捲ったシドの手がわずかに止まった。腕に残された痕に気づいたのだ。それを見越してジェイを誘ったカツミにしてみれば、計算通りの展開である。
──子供じみた実力行使。
カツミは有効な手段を見つけて行動するのが速い。ただし、形勢の逆転までは頭になかったらしい。
「医者って嘘が上手いよな。ジェイを取り戻そうとしてるくせに」
カツミの悪態をシドがさらっとかわす。
「取り戻すか。そんな日が来るのかな」
カツミの言葉はシドが昨夜に決意したこと、そのままだった。だがシドは、カツミが生きていると知った時の安堵を思い起こす。
つけいればいいじゃないか、カツミの迷いに。追い込む手段などいくらでも知っているのに。でもそれは、ジェイの望みではない……。自分がジェイに寄せる想いは、カツミを退けて得られるものではないのだ。ならばどこに、この想いを置いたらいいのだろう。
思考に埋没していたシドが不意打ちを食らった。
「ドクター。俺の親父、知ってる?」
「……そりゃあ、ここのトップだから」
一瞬だけ間を置いたシドの返答に、カツミから鋭い探りが入った。
「言ってる意味は、分かると思うけど?」
だが、シドは平然と切り返した。
「どういう意味だ?」
「嘘ついたって調べるからな」
「どうぞ」
ガードの固いシドは感情変化を表に出さない。カツミが彼の真意を探ることは不可能である。シドの余裕の笑みを見たカツミが、悔しそうにそっぽを向いた。