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ONE 第七話 おまえはそれを拒めない

 たったひとりの決して失えない存在。拒み続ける世界から、唯一守ってくれる人。
 彼がいなければ、カツミは既にいなかった。
 あの冬の日に。初雪の降る寒い夜に。心も身体も手放して、みずから死を選び取っていた。

「ジェイ」
 力なく呟いたカツミの傍に、ジェイが静かに近づく。ふたたび同じ名前が呟かれた。呼び続けていなければ、心が壊れるとカツミは思っていた。
 歩み寄ったジェイが手にした銃をゴトリと置いた。広げられる温かな腕が縋りつくカツミを包んで閉じる。
 ジェイは思う。この腕の中だけでずっと閉じ込めていられたらと。自由も可能性も全て奪い、縛り付けていられたら……。だがその想いが招いてしまったことなのだ。自分の焦りで。自分の恐れによって。最悪の結果を突き付けられるところだった。

 どうしたらいい? ジェイを見上げたカツミが瞳で訊いていた。
 自分はどうしたらいいの? 何をしたらいいの? 生きてていいの? 自責に押し潰されるこころが叫びを上げている。
 自分こそ責められるべきなのに。ジェイはそう思いながらも毅然と言い渡した。

「お前にできることは何もない。フィーアが自分で決めることだ」
 生と死を一対にした光。その瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。ジェイはもう見ていることが出来ずに、再びカツミを抱き締める。

「お前は誰にも殺させない。それができるのは私だけだ」
 独り占めできるのは自分だけだ。自分によってしか、死など与えない。だがジェイは、カツミの懺悔で自分の罪を思い知った。

「ごめんね、ジェイ。怒ってるだろ?」
「……カツミ」
「ほんとは俺を撃って欲しかった。それが一番の幸せだから。そしたら俺は、ジェイのなかでずっと生きていけるから」

 ──何も覚えずにすむ場所に。孤独も、不安も、絶望も。苛立ちも、恐れも、哀しみも。何もない場所に行けるのなら。ジェイの手で。唯一無二の、こころを預ける人の手で。

 ジェイにとって、それは残酷な願いだった。殺せるのは自分だけだと告げたばかりなのに、同じ言葉をカツミに向けられただけで、波立つのを忘れていた心がかき乱される。
 だがジェイには、決して譲れないことがあった。この手を放さなければならない時まで、何があってもカツミを守り通す。そのことだけは。
「お前は誰のためにも生きようとしないんだな」
 悲しげな声がカツミの耳朶を打った。彼は力なくうなだれる。そう。自分は誰のためにも生きようとしていない。今はただ、この唯一を永遠にしたいと思っている。
「私のためにも生きてくれないのか?」
 カツミは無言だった。代わりに低い嗚咽が暗い空気を震わせる。

 ──いのちのクリムゾン。死のトパーズ。
 生死の天秤が、知ってしまった事実を乗せてガタリと大きく傾きを変える。
 コインの裏側。一対の生と死。
 カツミはまるでフィーアの心を映したように、絶望の底で震えていた。

 ◇

 もう深夜も近いというのに来客の合図がした。
 自室のドアを開けたシドは、思いもよらぬ人物を認めて息を飲む。黙ったままのジェイが昨日の続きのようにすっと部屋に入ると、定位置だったソファーに腰を下ろした。

「なにかあったのか?」
 動揺を隠してようやく水を向けたシドに、ジェイが疲れたように弱音をこぼした。
「カツミが殺されるところだった」
「フィーアに?」
 わずかに頷いたジェイが肩を落とす。彼が最も恐れていたことだった。
 だがシドは思う。自分もこの結果を恐れていた。しかし心のどこかで望んでいなかったか? ジェイの望みは自分の望み。それでも逆を願っていなかったか?

「カツミが医務室に来たと知らせてくれたろう? あの後、初めて約束をすっぽかされてね。IDを使った経路を辿って追ったんだよ。危機一髪だ」
 ID経路を辿るなど他の隊員には決して出来ない。この基地のトップと内通しているジェイにしか出来ないのだ。彼が何をしても、ここの最高責任者は黙認する。決して事が表沙汰になることはない。

「どうしたんだ?」
 ドアの前に立ち尽くしたままのシドに、ジェイが問うた。
 自分はもう過去のことか……。ジェイの頭にはカツミのことしかないようだ。シドは、ひどく空しさを覚えた。諦めたように向かいのソファーに座る。

「一年ぶりだと思っただけ。貴方がこの部屋に来たのが」
 シドの皮肉をジェイが無言でかわす。
「報告なら電話でも良かったはずだ。わざわざ出向いて来たことに、わけなんてないんだろうね。もしかして、言われて初めて気づいた?」
「……ああ」
 自嘲を放り投げるジェイを見つめ、シドは自業自得じゃないかと眉をひそめた。
 ジェイがみずからカツミを追い込んだのだ。自分もそれに手に貸した。言われるままフィーアを貶めた。
 シドは思う。なぜ抗えないのだろうと。
 ジェイの前では理性などあまりにたやすく捻じ伏せられてしまう。罪ですら進んで選び取ってしまう。

「なんでここに?」
「見てられなかったんだ。どうにかなりそうで」
「カツミは?」
「寝かせてきた。薬を飲ませて」
「……甘いよ。ジェイ」
 前髪をかきあげるジェイの前に、シドが溜息をこぼした。逃避でしかない。目覚めれば、カツミは自分を責めて泣くのだ。そして軛(くびき)から解放されたものは元には戻れない。
「相変わらず残酷だね。変わらないよ、貴方は」
「だよな」

 開き直って答えたジェイが、他人には見せない弱音をこぼした。シドだけに。他の誰でもなく、シド一人だけに。残酷な弱音を、残酷な本音を、かつての恋人だった者に。

「カツミの気持ちが離れると思うと、狂いそうになるんだ。自分を保てない」
「しょせん貴方は自分だけが可愛いんだよ。捨てた相手を訪ねて来てまで、今の恋人の話ができるんだからね」
 澱のように溜まったわだかまり。それが堰を切ったように溢れだす。いつものシドであれば、決して口にしないことばかりだった。
「どうしたらそんなに残酷になれるんだ? 貴方はなにも分かってない。自分のことしか考えてない」
「じゃあなぜ、お前は私を部屋に入れた? 怒鳴って追い返せばいいじゃないか」

 ジェイがさっと腰を上げた。息を飲む相手を量るような視線で留め置くと、余裕すら感じさせる笑みを浮かべながら、シドの隣に座り直す。
 行き場のない想いがシドの心を苛んだ。だが彼には、これだけでジェイの気持ちが分かってしまう。ジェイですら、頼りたい時があるのだと。

「とんでもない自信家だね」
「お前がそうさせたんだろう?」
 ジェイがシドの背に腕をまわした。その指が癖のある髪を弄ぶ。皮肉は通じなかったが、シドはむしろほっとしていた。自分がジェイに必要とされていることに安堵していた。

「あんな子供の代わりなんて、ごめんだ」
「代わりじゃない」
 皮肉も抗いも虚勢も、全て見抜かれていた。唇が重なる。偽りと逃避。傷つけあうだけの口づけを交わす。
「酷いね。分かっててやってる」
「分かってるよ。ずいぶんと理不尽なことくらいはね。でも、おまえはそれを拒めない」

 ジェイの断言がシドの頬を張った。唯一無二の神は、抗えない者に残酷を強いる。その心が壊れていくことも厭わずに。
「殺したくなったか? どうぞ」
 ジェイの挑発はただの虚勢だ。シドはそう思いながら残酷な胸に顔を埋めた。やるせなさを隠すために。一瞬でも、この時をこぼすことのないように。

 ジェイはいつも見透かしてしまう。そしてシドはどんなことも拒めない。
 一年ぶりの腕のなかでシドは思っていた。
 ジェイから与えられるものがどんな刃であったとしても、自分は進んで受け取ってしまうだろうと。身を焼くような残酷ですら、至福に変えられるのだからと。