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ONE 第三話 違和感

 セアラが部屋を出てからも更に杯を重ねたカツミには、相手の気持ちを思いやる余裕がない。今日はあまりにもタイミングが悪かったのだ。
 微かな空調の音だけが響く個室。防音が完備された部屋には離着陸する偵察機の音も入って来ない。ブラインドの降りた窓をサーチライトの光が過ぎ、美しい横顔を照らしていった。

 さすがに飲みすぎていた。いつもは寝つきの悪いカツミだが、深酒が睡魔を呼び寄せていた。意識が濁り始める。得体のしれない焦りとともに。こころの置き所のない閉塞感とともに。
 やがて来る冬の季節。あの日と同じ雪の降る季節。毎日のように突き刺さる冷たい視線。それに抗い続ける幼い心。そして気になる相手への違和感──。
 グラスに手を伸ばすと、もうひと口。喉は渇いていない。何かをしていなければ自分を保てないのだ。あがき続けていなければ、自分などあっという間に捨てられてしまう。捨てられないように。いらないものだと言われないように。孤独に震えずにすむように。手と意識が、何かをつかもうともがき続ける。

 ◇

 カツミは優秀な新人だった。最高位の士官学校を首席で卒業したくらいには。父親譲りの能力と子供の頃からの厳しい英才教育。なにより彼の努力がその成果を掴み取った。
 だがここは優秀な人材の集まる場所なのだ。学生時代とは違い、秀でた能力の持ち主などいくらでもいる。
 彼の目標は、この基地の最高責任者である父だ。父を凌駕したい。その思いがあったからこそ、厳しい就学を重ねて特区入りを果たした。彼には選択肢がなかったと言える。他に行き場がなかったとも。

 しかしカツミを見る周囲の目は冷たかった。親の七光りで配属されたと誰もが思い込んでいたからだ。
 カツミは入隊当初から激しい嫌悪を向けられ、貶められた。周りの反感をさらりとかわせるほど彼は強くない。幼いこころは潰れる寸前なのだ。

 他人を寄せ付けない氷の防壁。それは弱い自分を守る必死の抵抗だった。上を目指す傍らで自己否定と自虐性を併せ持つ。カツミのこころは常に揺れていた。
 いま口にしている酒にしても度を超せば身体を蝕む。自己を保とうとしながらも、同じ自己を殺そうとする。生と死に振れる天秤は極端から極端に傾く。

 いのちに縋りながら死に魅入られる。カツミはいつも、その狭間で葛藤していた。思春期の感情の揺れに起因するのか。彼の生い立ちに依るのか。それとも、もっと遠い過去から定められた運命なのか、知る由もなく。

 その上、彼は目標としている父のことをこの世で最も憎んでいた。カツミは父子家庭で育ったが、父からずっと物のように扱われてきたのだ。彼の世話は使用人の仕事であり、彼の教育は家庭教師の仕事。カツミは父親に放置され、無視され続けてきた。

 ──早く、奈落に堕ちる前にこの手を掴んでほしい。それとも、いっそのこと突き落としてくれたら。
 どちらでも良かった。彼は疲れていたのだ。起伏の激しい感情に翻弄され、どうしたらいいか分からない。
 みずから造った壁の内側でガタガタとうち震え続ける。そんな日々に、彼はとても疲れていた。

 ◇

 優しく髪を撫でられ、カツミが重い瞼を開けた。セアラが帰ってから1ミリア経っている。
「ジェイ」
 細いフレームの眼鏡。その奥にある茶色の瞳がカツミを優しく見下ろしていた。前髪をくしゃりとかき上げられ、カツミの顔に安堵の色がさす。
「珍しいな。ぐっすり眠ってたぞ」
 彼は苦笑いを浮かべていた。カツミの行動の理由など周知のことなのだ。

 ジェイ・ド・ミューグレー。九歳年上の彼は、基地に併設された施設の研究者だった。元々はパイロットとしての入隊だったが、わけあって地上任務である現職に転属している。
 スレンダーで長身。育ちの良さの滲み出る上品な物腰。さらりとした漆黒の髪。鼻筋の通った美しい容姿。外見も知性も恵まれた人物である。今は優しい眼差しが、時おり射るように鋭く変わるのをカツミは知っていた。彼を恐れる隊員が大勢いることも。
 しかし、そのような視線がカツミに向けられたことは一度もない。ジェイはカツミの唯一の拠り所。どこまでも温かく包んでくれる相手だった。

 カツミの隣にジェイが腰を下ろす。封をあけたばかりの酒を見て、セアラ同様に眉をひそめた。
「それ、何杯目だ?」
「五杯目」
 まだ宵の口だぞと言いたげに、ジェイが天井を仰ぐ。さらりとした前髪に指を通して上げるのは、物事に動じない彼が少しばかり困った時に見せる癖だった。
「言っとくけど、ドクターからもらったんだからな」
「そう言えば、昨日会ったらしいな」
 この基地の軍医は余計なものを処方しやがる。
 苦笑をこぼしながら、ジェイの視線がテーブルに置かれたままの空のグラスに向けられた。
「ドクターは、なんて言ってた?」
「安定剤を処方したってさ。急性アルコール中毒になっても診ないっていうありがたい警告つきだけどな」
「ったく、もう!」

 不満気な声を上げたカツミに、ジェイがまた目を細めた。カツミがいつにも増して自虐的になっている……。ジェイが覚えるのは、罪悪感という名の痛みだった。
 素知らぬふりをして穏やかに質問を続ける。
「なに、荒れてるんだ?」
「べつに。荒れてなんかいないよ」
 カツミの強がりすらジェイには愛おしい。だが同時に、もう限界だろうと感じていた。

「フィーア・ブルームのことか?」
 強烈な葛藤のなかで、ジェイはようやくその名前を絞り出した。声色は穏やかなままだ。口元には笑みすら浮かべている。
「なんだ。知ってたんだ」
 つい先ほどセアラとやりあった時とは違い、カツミの返事に驚きの色はない。グラスを取りに行ったジェイを目で追いながら、次の言葉を待っている。
 こころを預けた者特有の穢れなき視線。純粋で無垢なオッドアイの光が、ジェイの苦悩に追い打ちをかける。

「お前のライバルだからな」
 ありきたりの返事にカツミが不満顔となった。誰もが口にする言葉である。ジェイにまで言われる必要はないのだ。
「まともに話したこともないよ」
「ふうん」
 軽く相槌をうったジェイが、黙って水割りをつくる。
 反応を控えることで相手の本心を引き出すのは、狡い手管だ。だがカツミの場合は、どうしてもそれが必要だった。彼はジェイに対しても空意地を張る。相手がなくてはならない存在だと知っていても、自衛の鎧を外せないのだ。

「最近あいつ変なんだ。そつなくこなしてるけど、うわの空で。どこか投げてるって感じで」
 他の人物であれば気づかなかっただろう。そう思い、ジェイはカツミの勘の鋭さを今回ばかりは悔しく思う。気づかなければ傷つくこともない。知らないうちに守られたままで事の全ては終わってしまうのだ。
 カツミはいつも自分の殻に閉じこもっていたが、見ようとすればいくらでも真実を見抜けた。明晰な頭脳と鋭い感性。そして純粋すぎる心。だがその心がいつも彼を傷つけてしまう。

「気になる気持ちも分かるけど、もう関わるな」
「なんで?」
 疑うことのない瞳がジェイの罪悪感をえぐり出した。鏡のように。真実を映す鏡のように。そっと息を吐き、ジェイは覚悟を決めた。いま言わなければカツミが壊れてしまう。それだけは避けなければならない。

「極秘だぞ。聞いたら他に漏らさない。約束するなら教えるけど」
「なんだよ、勿体ぶって!」
 反発はしたもののカツミの酔いは急激に醒めた。ジェイの言葉を聞き逃すまいとソファーに深く座り直す。

 不意打ちが続いた。ジェイの唇が瑞々しい花弁のようなカツミの唇をそっと閉ざしたのだ。羽根が触れるような優しいキス。このあと言わなければならないことに言い訳をするように。
「やっと目が覚めたようだな」
「騙したのかよ!」
 声を荒らげたカツミだったが、ジェイの真顔を見て、口をつぐんだ。
「騙してはいないさ。約束するか?」
「する!」

 即答するカツミにジェイが微笑を向けると、自分の唇に人差し指を当て、口止め約束のキスを催促した。
 しびれを切らしたカツミが、むくれ顔で唇を押し当てる。しかし顔を離した彼の目に入ったのは、ジェイの硬い表情と眼差しだった。