アデル 第十九話 別
──見よ、月が笑う。満ちた欠けたと心乱すものどもを。なにを得て満たしたと言い、なにを得ずして喪失を嘆くかと。
はじめから全ては手の中。それを知らずして求めるは愚なり。満ちているものに満たすことは、すなわち溢れるのみ。
求めることを止めぬものどもよ。月は満ちても次には欠ける。そしてその事を嘆きはせぬ。完全を賛美する者に踊らされるな。月明かりに照らされた足元に、なんじの影を見よ。
◇
期限の一週間が近づいた頃、夕星はアデルの代わりに別のアンドロイドを連れてジタンの元を訪れた。しかしジタンは興味を示さず、会話することもない。
夕星はちらりと横目で五味をうかがう。どこかマッドサイエンティストを思わせる相手にとって、独房で起こっている現象は想定内らしい。
アンドロイドを下がらせ、夕星はみずから房内に足を踏み入れた。
拘束は解かれていたので、ドアを開放したまま距離をおく。どうしても、ジタンに直接訊きたいことがあったのだ。
「ジタン。教えてくれ。アデルと今のアンドロイドのなにが違うんだ?」
夕星の問いにジタンが呆れたように顎を上げてみせた。モスグリーンの瞳が照明の下でギラリと反射する。
「それはお前にだって解るはずだ」
「えっ?」
「あんたにとってもアデルは特別なんだろ? アデルは純粋だし敏感だ。他の機体とは違う。アデルはアデルだ。違うのか?」
まるで人間と会話しているようだと夕星は感じた。ジタンはアデルというひとつの機体を、他とは別物として見ているのだ。
多くの人間の中で、ひとりを特別視するように。そんなことがあり得るのか。
会うたびにジタンがキスをするのは、人間に対する当てつけだけではないようだった。ジタンにとってのアデルもまた、代えのきくものではなくなっているらしい。
「まあ。好みは似てるようだな」
「好みだって?」
「アデルがこっそり言ってたぜ。夕星は僕にキスもしないってな」
「なっ!」
気色ばんだ夕星を見ると、ジタンが声を上げて笑ってみせる。
「はははっ! 単なる事実だろ? だからってアデルがそれに不満なわけじゃない。解析できないだけだ。あんたの気持ちと態度が揃ってないってな。人間なんてそんなもんだろって言ったけど、やっぱり分からなかったらしい」
困惑に口を塞がれた夕星に、ジタンが質問を向けてきた。
「で? 今日はなんでアデルと一緒じゃないんだ?」
「あ……。ああ」
夕星はスーツのポケットから携帯端末を取り出した。アデルのデータを確認するためである。あと二日だった。だが、あと二日も残っている。
「数河是空っていう資産家のところに行ってる。うちの会社の大株主だ」
端末にデータは受信されない。何か不具合でもあったのだろうか? 夕星を不安と焦燥が襲う。おかしい。何度トライしても通信が止まったままだ。
じっとディスプレイを見つめたままの彼に、いぶかし気な声がかかる。
「どうしたんだ?」
「いや。アデルのデータが受信されないんだ」
「その、数河ってやつ。なんの目的でアデルを呼んだんだ?」
「運用検証だ。『お相手』させられてるってわけだよ」
ジタンの表情が険しく変化し、次の問いが夕星の横っ面を引っぱたいた。
導火線に火をつけたのだ。
「それも、あんたの仕事のうちなのか?」
「仕事でもなければ、こんなことやってられっかよっ!」
ジタンの怒気を含んだ声に、夕星の頂点に達した苛立ちが衝突した。
「行くぞ。あんたを人質にさせてもらう!」
「えっ?」
言うが早いか、ジタンは夕星を羽交い絞めにすると独房を出た。
五味は動かない。外への緊急要請すらしなかったらしい。奪ったジープがようやく止められたのは、研究本部の正門前である。そこで初めて、夕星は人質としての役割を演じることとなった。
その頃、数河の邸宅ではアデルに狂気が襲いかかろうとしていた。
当主は生贄を求めていた。アデルという特別な機体。自分の死にふさわしい美しく純粋な生贄を。