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ONE 第四十五話 自分だけの大切な宝石

 瞼を透る光を感じ、ジェイは薄っすらと目を開けた。カツミは隣でぐっすり眠っている。
 夜明けの色が温室のガラスを染め始めていた。漆黒の闇が濃紺に、やがて薄紫に。朝焼けの緋色を予兆させる、美しいグラデーション。
 冬に支配されているはずの南部の海は、今朝は不思議と凪いでいた。静かな海面が朝陽に照らされ、鮮やかな金色に染まっていく。緋色の空と金色の水面。その色は、まるで天からの祝福のよう。そして消えゆく生命の残照のようだった。

 ジェイは、みずからの残り火を見つめようと瞼を閉ざす。耳に届くのは暖炉の薪が小さく爆ぜる音。もうほとんどが灰となり、熾火の残った暖炉。
 ガサリ。炭の崩れ落ちる音がした。燃え尽きる寸前の、微かな叫びのように。

 残された時間が、あまりに少ないことに嘆息する。
 それでも。最期の時までカツミのなかにいのちの色を映さなければ。それが自分の生きた証なのだから。

 ジェイは寄り添って眠っているカツミに唇を寄せた。頬の傷を癒すように何度もキスを落とす。
 起きてくれないか。カツミ。最後の我が儘を聞いてくれ。お前の瞳が見たい。お前の声を聞きたいんだ。
 やがて、神秘的なオッドアイがゆっくりと開かれた。
 生死を宿す宿命の瞳が。ジェイを魅了し続けた真実を映す鏡が。

「やられたな」
 傷を撫でながら目を細めたジェイに、カツミがいつものようにむくれてみせた。
「油断しただけだよ」
「ほう?」
「ちゃんと一人で解決した。心配いらないよ」
 きっぱりしたカツミの返事に、ジェイは少しだけ寂しさを覚えた。口を閉ざすと、小さな肩を抱き寄せる。

 ジェイは思う。カツミはもう、この手を離れていくのだと。それを促したのは自分自身なのだと。
 共にいられたのは、たったの一年間。しかし、短くて良かったのだとジェイは思う。カツミのなかに、いのちだけを残して去ることが出来るのだから。

「愛してるよ」
 ジェイの囁いた言葉に、カツミが頬を染めて同じ告白を返した。
「俺も。愛してる。誰よりも」

 ──死から生へ。
 時を超え、ジェイに課せられたのは、守る者としての使命。彼はそれを知らない。分かっているのは、カツミという存在が自分の本心を炙り出し、捉えて離さなかったということ。生まれて初めて本気で自分のものにしたいと思った、唯一無二の存在だということ。

 暖炉の熾火。それは間もなく白いだけの灰と化す。
 いのちの奇跡と必然の死を示すように。あれだけ赤々と燃え盛っていた炎が色を失っていく。
 永遠の眠りに誘われながら、ジェイが請い願う。
 あと少しの猶予を。最後の言葉を伝え終わるまで、カツミを送り出すまで、あと少しの猶予を……。

 その時。まるで彼の願いを聞き届けたかのように、風のない温室の葉陰が大きく揺らいだ。

 ◇

 すっかり陽が昇った時刻。カツミが寝室に戻ると、ジェイが瞼を開けていた。天界が愛した者を手招くように、窓から柔らかな光が降り注いでいる。
「ごめん。起こしちゃったね」
 ジェイは満ち足りた顔をしていた。目覚めた時に最愛の人がいる。その至福に身をゆだねるように。
「なにか飲む?」
「ワインがいいな。赤で」
 ジェイのリクエストに呆れながらも、カツミがワインを取りに行く。時刻は正午。グラスに口をつけたジェイは、その時が来たのを悟った。

「カツミ」
 それは、いつもと違う声だった。優しさと慈しみを超えた、厳しさがこもった声。
「必ず、生きて戻ってこい」
 ジェイの強い口調に、カツミがぎりっと表情を引き締める。

 ──必ず生きて戻る。それはジェイからの『至上命令』だった。

「必ずだぞ。誓えるか」
 透明な水面にいのちのクリムゾンが映る。ジェイに、分け与えられた命が。
「誓うよ。必ず戻って来る」
 幻想的な瞳に射貫くような鋭さを宿し、カツミが強く頷いた。頬を緩めたジェイが腕を伸ばす。最後に交わされる羽根のような口づけ。
 ジェイはいつものようにカツミの髪を撫で、ゆっくり肩を押した。光に溶けるような眼差し。ジェイに微笑んでみせたカツミは、想いを断ち切るようにさっと背を向けた。

 足音が遠ざかり、ドアの閉まる音が響いた。やがて車の音が聞こえなくなるまで、ジェイは全ての音を脳裏に刻み続けた。
 再び訪れた静寂のなか、ワイングラスに視線を移す。
 光を受けたグラスの底に赤い影が落ちていた。まるで宝石のような、最愛の人のいのちの色が。
 温め、癒し、守り通した宝石。そしてもう、手のなかから飛び立っていった希望。

 切なさと安堵のなか、再び横たわったジェイを導く光。その瞼の裏には、赤い宝石がいつまでも残っていた。

 ◇

 カツミが特区に戻った時には、すでに出撃前の喧噪が基地を満たしていた。彼は人波を縫うようにして、シドのいる医務室に向かう。

「忙しい?」
 ドアを開けるなりそう訊いたカツミに、シドが大仰に肩をすくめて見せた。
「お前の親父さんがいきなり辞めたんで、大混乱だ」
 カツミの心中を探るようなひと言。しかしカツミは眉ひとつ動かさなかった。その表情を見て、取り越し苦労だったかとシドは安堵する。
「後任はどうなったの?」
「グレイ准将が引き継いだ。順当だろうね。人望も厚いし、上出来だよ」

 ほっとしたように座ったカツミの向かいに、シドが腰を下ろす。
「帰ってきたな」
「当然だよ」
 ジェイの元に行く時、毅然と背を向けたカツミ。それを思い出したシドが、いつもの苦笑を浮かべる。

「出るのは18ミリアだったな」
 頷いたカツミに、シドが短く告げた。
「私は明後日だ。今日、ジェイの所に行く」
「なるべく早く行ってやって」
「悪いのか?」
「行った時に動けなくなってた。自分で鎮痛剤も打てない状態だったよ」
「カツミが打ったのか?」
 叱責にも取れる口調にカツミがそっぽを向いた。まだ何か言いたげにしていた軍医が、それを小さな溜息に代える。

 時計を見てカツミが立ち上がると、シドもまた生還を約束させた。
「武勲を祈るよ。准将にも他の連中にも、お前の実力をたっぷり見せつけてやれ」
 それに笑みで応えたカツミだったが、すぐに唇を結び、ビシリと敬礼を返した。
「ドクターが言うんなら、きっとそうなるね」
 幼さの残る言葉を置き、十年後に特区双璧の一人となる人物がドアを出て行った。

 ◇

 遠くで電話の呼び出し音が鳴り続けている。重い瞼を開けたジェイは、隣の部屋に視線を向けた。しかしもう起き上がる余力は残っていない。
 電話が留守録に切り替わった。そしてジェイの耳に届いたのは、一番大切な人の声──。

 『いないの?』
 戸惑うような確認。わずかな沈黙。
 『すぐに、ドクターがそっちに向かうからね』
 いたわるように囁く声。
 ジェイは、その声に包まれながら瞼を閉じる。至福が彼を満たしていた。

 『今から出るよ。約束は守るからね』
 自分だけの……大切な宝石。
 『ジェイのとこだけだよ。俺の帰る場所は。きっと戻るからね』
 カツミ。いのちの宝石は必ずここに帰ってくる。

 『好きだよ、ジェイ。ずっと好きだよ』
 必ず……必ず帰ってくる。

 今際の際にあって、ジェイがどこまでカツミの声に抱かれていられたのか……知るよしもない。
 カツミのメッセージが途絶えた時には、すでに死出の旅に就いていた。
 眠るように彼は逝った。みずからの生命を、ひとつの希望に置き換えて。

 ◇

 一つの悲劇の終わりが、もう一つの悲劇の幕を開けた。シドは……間に合わなかったのだ。

 呼び鈴を押しても応答がない。ノブを回すと鍵が掛かっていない。そっとドアを開けて邸内に入ったシドは、激しい胸騒ぎに襲われた。足が震えて、真っ直ぐに歩けない。

「ジェイ?」
 琥珀色の夕陽のなか。ベッドに横たわるジェイは、眠っているようだった。
「ジェイ?」
 再び呼びかけた刹那、シドは間に合わなかったことを悟った。

 天からの祝福のような黄金色の光。そのなかでシドの時が止まる。全ての音が途絶え、全ての色が失われた。その場にくずおれたシドの瞳には、もう何も映らない。
 予測していた現実だったはず。しかしシドは、突き付けられた現実に耐えられなかった。