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ONE 第四十話 もう、解けない

 医務室に戻ったシドは、少し仮眠を取ろうと書きかけの書類をまとめた。ふと顔を上げて壁際に置かれた薬品戸棚に視線を送る。
 中段にある白い粉末の薬瓶。シドの最後の逃げ場がその劇薬だった。カツミが自室に銃を置いているのと同様に、一年前から同じ場所に置かれたままである。
 向けた視線を動かせず、シドは立ち尽くしていた。

 『自分を好きになれるように』
 カツミの言葉が浮かぶ。
 私は……出来ていたはずだ。そうでなければ、医者などこなせるはずがない。しかし。最後の逃げ道を確保しなければ、もう笑うことすら出来なくなった。
 どこから狂ってしまったのだろう。この道はどこに通じている? 私には確信がある。ジェイを悲しませることだけはしないという確信が。でもその先。ジェイがいなくなってからのことは、今も自信が持てない。いや、カツミが私の手を離れてからと言った方が正しいのかもしれない。

「はは……」
 己を嘲笑うしかない。私はカツミのように『自分を好きになるために』行動したことがあっただろうか。いつも誰かのためではなかったか。そして、『してやっている』という言い訳で、自身の弱さから目を背けてきたのでは?
 この十年で落とした星の数ほどの溜息を、シドはまたひとつ重ねていた。

 ◇

 短い仮眠をとった後、シドはすぐにジェイの往診に出かけた。猛吹雪だった前回とはうって変わり、別荘地の丘には春のような陽射しが降り注いでいた。海も穏やかに灰碧色の波を揺らしている。
 いのちの芽吹く季節。その序奏は始まっていた。全ての生けるものが輝く季節。伸びやかに生命の喜びを謳歌する季節。時だけは決して止まらないのだ。

 海沿いの一般道からジェイの別邸のある緩やかな山道に右折する。そのとたん、針葉樹の森を抜けてくる柔らかな光がフロントガラスの上で踊った。淡い陰影をかたどりながら、ためらい、戸惑い、光と影が絡み合う。
 それはまるでシドの心の陰影だった。光と影を交互に見せながら、ある時は命を照らし、ある時は死を求める。ゆらゆらと、その狭間でシドの心はたゆたう。いま彼を生に繋ぎ止めているのは、たった一人の人物だった。

 ひと気のない静かな林道をゆっくりと縫っていくあいだ、シドは窓を開け放った。冷えた風と樹々の隙間から落ちる陽射しが、肌にじかに触れる。降り落ちる生と死の妖精。それが肌にふわりと触れて命を教え、ざらりと掻いて死へと誘惑した。

 ◇

 シドが屋敷の前に車を停めると、すぐに玄関が開いた。前庭の樹には、もうたくさんの蕾がついている。
「体調はどう?」
 シドの質問に、ジェイが張りのない声でなんとかねと答えた。居間に通されたシドは、出しっぱなしになっている鎮痛剤の箱を目にする。蓋を開けると、きっちり日数分の薬液が減っていた。
「出来れば内服薬から使って欲しいけどね」
「そうしたいところだけど」
「処方は変える。それとまずは点滴だな。横になって」
 シドの指示に微かに笑ったジェイが、ここぞとばかりに医者面しやがってと軽く毒づいた。
「お生憎さま。十年前から医者なんでね」
 ジェイはシドの切り返しに薄く笑みを重ねただけ。いつも見せていた余裕は完全に消え失せていた。

「週末にカツミが来るよ。大丈夫か?」
「見せた方がいいんだよ」
 全く予期していなかった返事に驚き、シドが押し黙った。
「その方がいいんだ」
 念を押すように、もう一度同じセリフが繰り返された。シドはジェイの生命を賭した覚悟に気圧される。
 ジェイにはもう分かっているのだ。カツミが彼の死を乗り越えていくことを。それを糧にして、みずからの足で歩き出すことを。

 点滴の準備をしているシドの目に、柔らかな光が届いた。寝室の隣にある温室から暖かな陽射しが射し込んでいたのだ。
 温室には背丈ほどもある大きな観葉植物がずらりと並んでいる。光を受けて輝くいのち。波打つ葉からこぼれる繊細な陰影。葉脈を透かすステンドグラス。
 それは美しい反面、ひどく切なかった。天からの祝福のような光がジェイを手招きしているようで。

 ◇

 点滴を終え温室の椅子に座ったジェイに、シドが紅茶を手渡した。シドが手にしたガラスの水差しを見て、ジェイが問いたげな視線をした。シドがふっと目を細めてみせる。

「そこの緑にね。水やりも大変だろうから」
「越して来た時、あんまり寒々としてたんでね」
「いいね。今日みたいに天気がいいと、生き生きして見えるよ」

 口をつぐんだ二人が、ひとときの安寧に浸った。
 溶け残った雪が外の光をよりいっそう輝かせている。風は冷たいが、室内は反射光に満たされとても暖かだった。葉に透けて溶けたガラスのような影が、温室の床に美しく広がっている。まるで宝石をちりばめたように。星のリングを映しこんだように。
 その穏やかな陽射しのなか、シドはロイから頼まれていた伝言をようやく口から絞り出した。

「ジェイ。シーバル中将が退官するそうだよ」
 しばらく全ての言葉が閉ざされた。きらきらと緑鉱石を溶かした光のなかで、瞼を閉じたジェイが十年の歳月に思いを馳せる。
 ──最後の生贄。その安息の地。
 ジェイは知らない。ロイの抱える虚無感のわけも。諦念のわけも。ただ、ロイは自分に似ていると思ったのだ。だからこそ、空洞を埋める欠片になろうとした。その変化をずっと待っていた。
 ロイに課せられた運命。その百年の呪いは、誰にも変えることは出来なかったが。
「……そうか」
 一言呟いたジェイは、その後沈黙を守った。ジェイの溜息を聞きつけたシドは、さらりと話題を変える。

「それと、セルディス家の末っ子が入隊してきた。A級の聞く者だよ」
「カツミとなにかあったようだな」
 いつものようにジェイの察しは速かった。だがもう、カツミになにがあっても彼の手は届かない。いのちの火種が消えないように、遠くから風を送ることしか出来ない。ジェイの無念に痛みを覚えながら、シドが答えた。

「フィーアの後輩だよ。その線で衝突したらしい。カツミは軽い怪我をしたけど、もう解決したみたい。どうやって和解したかは知らないけど」
「カツミの様子は?」
「貴方に応えようと必死だよ。でも強いね。毎日驚かされてるよ」

「お前はどうなんだ?」
「えっ?」
 シドは返答に窮した。ジェイが自分のことを訊いてくるとは思ってもいなかったのだ。
「……いつも通りだよ」
 シドの煮え切らない返事にふっと笑みを浮かべたジェイは、そのまま黙した。分かっていても問わない。いや、分かるからこそ問えない。ジェイにはシドの抱える脆さがくっきり見えていた。それに触れないことは、ジェイの優しさでも狡さでもある。

「体調が良くないせいもあるけど、どうも最近は気弱になってるみたいだ」
「どうしても入院したくないなら、使用人くらいつければいいのに」
「もう十年頑張ったからな。家には頼りたくないんだ。お前には、また迷惑をかけそうだけど」
 シドは思う。ジェイは自分だけに弱気な顔を見せる。それは自分に与えられた特権だと。
 だがその権利は苦痛と隣り合わせにあるのだ。一番見たくないものを眼前に突き付けられ、そしてもうどんなにあがいても時間は限られている。

 『俺ね、自分に課題を出してるの』
 カツミの想いの深さは自分を越えるものなのだろう。彼はジェイの最も望むことを知っている。それを掴む強さがあるのだ。自分にはない強さが。

「シド」
 ふいに呼ばれて顔を上げると、あの見透かすような視線とぶつかった。
「死にたそうな顔をしてるぞ」
 柔らかな陽射しのなかでそっと向けられた言葉は、包み込む優しさと棘のような鋭さを併せ持っていた。口を閉ざしたシドにジェイが予言する。

「お前は死なないよ」
 息を飲んだシドに、今度は狡い優しさが重ねられた。
「私が許さないからな」
 わずかに眉を寄せたシドが、苦笑まじりで茶化した。
「貴方は変わらないね。それは暗示か?」
「そう。もう、解けない」

 ──神の啓示のような言葉だった。解放の翼でありながら、呪縛の鎖のような言葉。

「ずるいね」
 愛しい人を見つめ、シドは涙を堪えていた。
 貴方はいつもそうして私を絡めとる。優しさと狡さ。愛情と欲望。安らぎと焦燥。相反するものを向けながらも、見透かすような目をして、私の手を掴んだまま離さない。

「そこがいいんだろう?」
 眼鏡の奥の目は少し意地悪で、しかしこの上なく優しい。シドはジェイにありのままの気持ちを伝えた。最愛の人だけを見つめ、心になにも纏うことなく、ありのままの気持ちを。
「……そうだよ。そこがいい」

 今だけは全てのことに目を瞑ることができる。シドはそう感じていた。身の置きどころのない葛藤も、浮かんでは消える狂気も、血の滲むような慟哭も。なにもかも全てに目を瞑ることができると。
 暖かな午後だった。厳かな光に満ちた春の兆しを感じる午後。そしてこの時が、シドとジェイとの最後の時間になった。

 ◇

 シドが帰ってジェイ一人になった部屋は、夕刻の闇に染まっていた。暖炉の火と落とした照明の灯りがジェイの横顔を照らす。向けた視線の先にあるのは、鳴ることのない電話。

 与えられるものは残り少ない。しかし最後まで踏み止まる。生死を宿すカツミの瞳に、いのちを映すために。
 カツミはこれから、たくさんの死を見ることになる。もっとずっと目を背けたくなる人の最期を見ることに。それが任務であり、最初の出兵が目の前なのだから。

「これは、シミュレーションだよ」
 こぼれ落ちた言葉にジェイはひとり小さく笑う。自分の死をこんなに突き放して見ているのが、なぜだかとてもおかしかった。