ONE 第三十五話 聞く者と退官
ジェイの別邸を訪ねた翌日。カツミは寮の廊下で呼び止められた。自室のあるフロア。以前にフィーアが使っていた部屋の前である。
すらりとした身体に真新しい制服を綺麗に着こなした青年だった。整った面立ち。黒髪に深い緑眼。カツミよりも頭ひとつ分ほど背が高い。
軽く会釈をした彼が、控えめだがはっきりした口調で尋ねた。
「シーバル少尉ですか?」
カツミが頷くと、恐縮したように少し目線を下げた。
「すみません。頼みがあるんですけど」
「なんだ?」
カツミの疑うような視線にも全くひるまない。特区に入隊する人物共通の強い自負が、惜しみなく発散されていた。
「このID。部屋の鍵にもなるって言われたんですけど、使い方が分からないんです」
「君、新人?」
「ルシファー・セルディス。少尉です。本日づけで、X─10部隊に配属になりました」
「能力者か。俺と同じ部隊だな」
「はい。『聞く者』です」
ルシファーが即答した。特区ではゲートの外のように隠す必要はないのだ。
「カード貸して」
カツミは、受け取ったIDをドア横の認識機に突っ込むと、操作盤の蓋を指で横向きにスライドさせた。ルシファーがその様子をじっと見つめる。
「後はここにパスを入力すればいい。最初の設定は自分の登録番号になってる。でもこんな面倒なこと、皆やってない。ここでロックして、カードを突っ込むだけにしてるよ」
「ありがとうございました」
頭を下げたルシファーに、カツミが疑問を向ける。
「今日からって、ずいぶんと半端な時期なんだな」
「ええ。X―10の隊員が足りないとの事で、特例なんです」
……ということはフィーアの代わりか。見当はついたが、カツミは違和感を覚えていた。
「さっき所属先の隊員紹介を受けて、貴方の写真があったので。すみません。ほんと困ってたんです」
「いいって。これくらい」
その時、ルシファーがカツミの背後に視線を送った。つられて振り向いたカツミの目に、歩み寄って来るシドが映った。シドは、二人のすぐ傍で足を止めた。
「どうかしたのか?」
「うちの部隊の新人だよ。部屋の鍵が開かなくて、のたうちまわってた」
「のたう?」
カツミの妙な言い回しで困惑しているルシファーを、シドがくすっと笑いながらフォローした。
「入隊おめでとう。意地の悪い先輩なんて無視していいからね」
「あ。いえ。助けてもらったほうです」
「名前は?」
「ルシファー・セルディスです」
名前を聞いたシドが一瞬だけ顔を強張らせたのを、カツミは見落とさなかった。
「私はシド・レイモンド。軍医だ」
「宜しくお願いします」
「医者にはあまり世話にならないほうがいいよ」
混ぜっ返したシドに、ルシファーがはにかんだ笑みを見せた。だがカツミは気づいていた。笑みの奥にある禍々しい敵意に。上手に隠してはいるが、フィーアほどには演じきれていない。
歩き出したシドについてカツミも自室に向かった。
だが、廊下の端にある部屋に入るまで、二人はずっと押し黙っていた。ドアが閉まるなり、シドが先に口を開く。表情にも強い警戒の色が滲んでいた。
「彼は能力者か?」
「『聞く者』だって。フィーアの穴埋めみたいだ」
「気をつけたほうがいい。思い過ごしかもしれないけど彼の目が気になる。あのセルディス家の者なら、A級は間違いなしだ。『全能力者』の可能性もある」
全能力者。静止や浮遊、衝撃などの念動力に加えて、精神感応──他人の思考を読む能力を兼ね備えている者が、そう呼ばれていた。カツミも全能力者だが、能力のほぼ全てを封印しているので、全容は彼自身にも分からない。
カツミはセルディス家のことを知らなかったが、シドの意見には同意した。
ルシファーから、負の感情を感じ取ったのだ。一年前のことがあって以来、カツミはこの手の感情に過敏になっていた。
でも、気づいたところでどうしようもないよな。カツミが小さく息をつく。シドも同じように考えたのか、すぐに話題を変えた。
「年末の休暇はいつ取るんだ?」
唐突な問いだったが、カツミは意図を察した。
「年明けから1サイクル。今日許可されたけど?」
シドに正対したカツミが、真意を確かめるようにじっと瞳を見つめた。
「ジェイのとこ。週末はずっと行くだろ?」
「うん。行くよ」
「その休暇中も?」
「もちろん」
「私は日をずらして行かせてもらうよ。平日に往診する許可を取った」
カツミにも分かっていた。三人になると、どうしてもギクシャクしてしまう。残り少ない時間を無駄にしたくないのは彼も同じだった。
カツミの視線に耐えられず横を向いたシドが、口にしたくない報告を続けた。
「ジェイの主治医は余命三か月と診断した。でもこれは、入院加療して最も引き延ばした場合の話だ。ジェイは入院を拒否してる。私はそれを強要する意味はもうないと思ってるんだ」
カツミは愕然とする。現実を改めて思い知らされ、握りしめた手が震えだす。動揺をシドに覚られたくなくて、髪をかき上げて誤魔化す。
「カツミはどうしてもらいたい? このままだと、お前の出兵中にジェイは」
死ぬ──と直接口に出せず、横を向いたままシドが訊いた。だが、カツミは首を振ってはっきり答えた。毅然と。シドが気圧されるほどきっぱりと。
「ジェイが決めることだ。俺が口出すことじゃない」
「……そうだな。私は狡いんだろうな。カツミが懇願すれば、ジェイも入院に同意すると思ったから」
──自分のためにジェイの生を引き伸ばそうとしていた。誰でもなく自分のためだけに。
「だから医者って嫌だよな」
皮肉で我に返ったシドに、カツミが笑みを見せた。そんな顔を見るたびに、シドは不安になってしまう。この反動がどんな形で出ることになるのかと。心配顔のシドに気づいたのか、カツミが先手を取った。
「無理するな。だろ? 分かってるよ」
「本当か?」
「まったく。すぐそうやって」
「保護者面する。だろう?」
「そうだよ」
シドはカツミの言葉に思わず微笑む。彼は感じていた。カツミに救われているのだと。我が儘で突拍子もなくて、しかし硝子のような感受性を持った子供。その子供に自分は救われているのだと。
もうカツミのことを子供扱いするのは間違っているのかもしれない。そうは思っても、シドはカツミを放っておけない。相手のためというより、自分のために。
「これだけ言いに来たんだ。まだ仕事が残ってるから、失礼するよ」
部屋を出ようとしたシドだったが、カツミに逆襲を食らった。
「無理するなよ。ドクター」
「はははっ! ったく。まいったな」
笑い声を背中に貼り付けたまま、シドがドアを開けて出て行った。
◇
遅い時間だが医務室には灯りがついている。来室の合図を聞いたシドが時計を見ると、22ミリアを過ぎていた。鍵はいつも開けている。すっと開いたドアから入ってきたのは──。それがロイであることを知って、シドは目を疑った。
「シーバル中将」
慌てて立ち上がったシドを手で制すと、ロイが面談用のソファーに腰を下ろした。
「仕事の邪魔だったかな」
「とんでもありません」
シドは事務机を離れてロイの前に出たものの、そこで立ち尽くしていた。手振りだけで着席を促したロイが、まあ落ち着けと言わんばかりにシドに訊いた。
「君は煙草を吸わなかったな」
「お待ち下さい。持って来ます」
当然医務室は禁煙だ。しかしシドは『ジェイ用』の灰皿を隠しおいていた。
処置室に向かったシドを見送ったロイが、何気なく目の前の薬品戸棚に視線を移した。棚の中段に一つ、特殊なラベルの瓶を見つけて身を乗り出す。それは本来、鍵のかかる場所に管理されるべき劇薬だった。加えて頻繁に使用されるとは思えない薬である。
戻ってきたシドから灰皿を受け取ったロイは、何ごともなかったように煙草に火をつけ、大きく紫煙を吐き出した。トパーズの双眸は、どこかいつもの厳しさを欠いている。
なにを言い出すのだろう。疑問と緊張のなかでシドが身構えていると、ロイが思わぬ話を切り出した。
「少佐」
「はい」
「君はこの先も軍医を続けるのかね? たしか家は開業医と聞いていたが」
「多少経験を積んで戻るつもりでしたが、もうしばらくお世話になろうと思っています」
カツミがいる限り退官する気にはなれない。その気持ちは確かだが、シドの言葉には少しの嘘が混ざっていた。彼はもとより帰る気などなかったのだ。
シドはロイではなくカツミに意識を移していた。その意識が、ロイの衝撃的な発言で強制的に引き戻された。
「近く、私は辞めるつもりだ」
あまりにもさらりと告げられた言葉だった。ロイはまだ四十代後半。退官するような年齢ではないのだ。呆然としていたシドに、ロイが退官理由を付け加えた。
「例のクローン計画で上と揉めてね。結局私が折れたんだが、もう潮時だと思ったんだよ」
「なぜ、それを私に」
「ジェイに、彼に伝えてくれ。私はもう降りるとね」
「……いちど、会いに行かれてはいかがですか」
「君から、そんな言葉を聞くとはな。私を憎んでるだろうに」
顔を強張らせたシドに、ロイが口の端を歪めてみせた。
「こないだカツミが訪ねて来たんだが、ずいぶん驚かされたよ。ジェイと君の影響だろうがね。あんな素直に育てた覚えはなかったんだがな」
ロイの皮肉には、もはや冴えも毒もなかった。それはむしろ自虐。あの冷酷非情な最高責任者の面影は完全に消え失せている。
返す言葉が見つからない。シドは俯いたままロイが揉み消した煙草の残骸を見つめていた。薄れていく残り香にこっそり混ぜるようにしてロイが弱音を吐く。
「カツミを頼むよ。頼める立場でもないが」
ジェイと同じ言葉に、シドが複雑な思いで顔を上げた。その思いを置き去りにしてソファーから立ち上がったロイが、同時に立ったシドに言い残す。
「カツミは私を越えるだろうよ。親の欲目だがね。私はもう、お役御免だ」
「中将……」
「ジェイとカツミ以外には、この件は内密にしてくれたまえ」
「承知しました」
基地のトップを見送ったシドは、ソファーにどさりと倒れ込んだ。退官──。思ってもみなかった事実が困惑を連れてくる。
まさかロイは、今でもジェイのことを愛している? ずっとその気持ちを隠していた? まさか。もう十年も経つというのに。頼むから、もう自分を、ジェイを惑わせないでくれ。頼むから……。
祈るような気持ちでシドが瞼を閉じる。部屋の中にはロイの喫った煙草の残り香が、その祈りを打ち消すように、まだ……漂っていた。