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ONE 第三十一話 南部へ

 週末の午後。猛烈に吹雪く中を一台の車が南部に向かっていた。運転しているのはシド、カツミは助手席である。
 走行しているのは自動運転可能なエアカー。スリップの危険はない。なのに、シドは頑なにハンドルを譲ろうとはしなかった。

 シドは以前、カツミが運転する車に乗って死ぬ思いをしたことがあるのだ。法定速度などカツミの頭にはない。戦闘機同様に、性能をギリギリまで引き出して使おうとする。シドから見れば無謀の最たるもの。特殊能力者の感覚など分かるはずもない。
 あの時はジェイも一緒だった。ただし彼は、助手席でそそのかしていた側である。

 ハイウェイは視界一面真っ白で、空気圧に飛ばされた雪が渦を巻いて散っていく。気象情報を聞きながらシドがちらりと窺うと、カツミは眠っているようだった。仕事の疲れがピークなのかもしれない。

 ようやく締結した休戦協定を破棄する計画が進んでいた。来年、数年に一度の大きな選挙があるのだ。両星の政治家が考えていることは明白だった。
 この国の政府は、あらゆる情報を捻じ曲げて国民に伝える。それがもう百年続いているのだ。情報の確度を疑ったとしても、それを抗議や抵抗という行動につなげる者はほとんどいない。
 あえて反社会的とみなされる行動を起こす者は少数派だ。飼い慣らされること。従順に社会に馴染むこと。それが、この国のスタンダードである。

 かつてこの星に降り立った祖先が、この現状を見たらなんと言うだろう。当時の国民はみずからを『開拓者』と呼んで、誇りにしてきた。同時に砂漠の星にしがみついた側を『怠惰な国』だと嘲った。
 だが今や、双子の星はもたれ合い依存しあう関係である。休戦はあっても終戦にならないことが、それを端的に表していた。

 カツミは特殊能力で体力を維持しているらしい。だがこのところの激務で回復しきれていないようだ。
 仕事に関しては、以前にも増して自己犠牲的に取り組んでいる。周りの評価がシドにまで伝わるほどに。
 カツミは元々能力の高い人物なのだ。現実逃避であろうと、仕事に打ち込めば見る間に評価が上がっていく。
 数年先には周りを大きく引き離す存在になるだろう。

 静かだったカツミが突然身体を起こすと座り直した。
「起きたか?」
 シドが声をかけると曖昧な返事が戻った。どうやら、狸寝入りだったらしい。
 死を目前にした人物への接し方が分からないのは、医師であるシドには十分理解できた。

「休憩しようか?」
「うん」
 程なくして、車は一番近いサービスエリアに入った。
「珈琲を買ってくるから」
 そう告げて車を出たシドは、風の冷たさに思わず首を竦めた。大雪など年に数日だが、なにも今日でなくてもと思う。当然駐車場はがらんとしている。滑らないようにゆっくり歩きながら振り返ると、しきりに目をこするカツミが見えた。

 少しだけでも休ませよう。シドは歩を緩めて時間を稼ぐことにする。珈琲のボトルを手にしてゆっくり車に戻るとカツミに手渡す。
「温かいよ」
 黙ってボトルの口を切ったカツミは、わずかな温もりを喉に通すと、ほっとしたように笑みを見せた。
「疲れてるんだろう? 残業続きだろうし」
「そうでもないよ」
「無理するなよ」
「ったく。すぐそうやって保護者面するんだから」
 ぼそりと言い返され、やれやれと首を振ったシドが、しっかり釘を刺した。

「見てられないよ。カツミ」
 強い口調に驚いて顔を上げたカツミを、シドが真顔で叱る。
「お前は、理解力は高いし行動も速い。でも感情はいつも後回しだ。なぜ自分を取り繕うんだ? 誰もそんなカツミを望んでやしないよ」
 いつしか視線を外していたカツミが、じっと唇を噛み締めている。

「こんなこと言う資格は、私にはないんだけどね」
 シドの自省に首を振ったカツミが、弱音をこぼした。
「怖いんだ」
「怖い?」
「どんな顔して行ったらいいか分かんない。何を話したらいいのかも。ジェイもドクターもすぐに見透かしてしまうし」
「私も? まさか私に遠慮してるんじゃないだろうな」
「……違うよ」
「じゃあ、いつも通りにしてればいいだろ? 忙しくて大変だって。私だったら退官したジェイに、羨ましいねと皮肉の一つも言ってやるさ」

 シドの軽口に驚いたカツミがさっと顔を上げた。目を丸くした彼を見て、シドは吹き出しそうになる。
「うわ。性格、悪いやつぅ」
「これは生まれつき。もう治らないね」
「ひでぇ」
 自虐とも開き直りとも取れるシドの軽口で、カツミの表情が和らいだ。

「迷ったら直接ジェイに訊くんだね。カツミに一番分かるように教えてくれるよ」
「ドクターは?」
「私情どっぷりだからね。最善の方法は教えられないな」
 その決定打で、カツミがとうとう吹き出した。
「ひどいなあ。なんだよ、それっ!」
「非難される覚えはないけどなぁ」

 フォワードをタップする。車が舐めるように動き始めた。
「そろそろ行くぞ。まだ1ミリアはかかるからな」
「うん。じゃあ寝とく」
 安心したらしい。しばらくして、今度こそ静かな寝息が聞こえてきた。

 降りしきる雪のせいで相変わらず視界が悪い。シドは自動運転に変更した。到着は遅れるが仕方ない。
 シートを倒して仰ぎ見る窓外で、無数の結晶が叩きつけられては散っていく。あとは、眠っていても目的地に辿り着ける。シドの意識は、いつの間にか眼前の光景から離れていった。

「怖い……か」
 強がっては見せても、カツミはやはり不安なのだ。しかし取り繕ったカツミをジェイは求めるだろうか? それを大人だというかもしれないが、違うとも感じる。
 大人の定義などないだろう。ただ、自分を受け入れて好きになること。生を楽しめるようになること。虚勢をはらずに自然体でいられること。それを大人というのでは?
 シドはふっと息をついた。この思いがそのまま伝わればいいのに。そう願いつつ、シドはカツミがみずから分かることを望んでいた。──だが。
「分かってないのは自分の方かもな」
 小さく呟きをこぼすと、シドはいま思ったことに疑問を向ける。

 ありきたりな言葉だった。ありのままを受け入れてないのは自分のほうでは?
 綺麗なだけの言葉だった。どこかで聞いたような、上っ面を撫でただけの言葉。心のどこにも落ちてこない言葉。自分の中のじりじりとした得体の知れない感情に、その言葉はまるでそぐわない。

 ジェイの依頼を全うしようとしている自分が、絶望している自分にほんの少し勝っている。平気なふりが出来ているのはカツミがいるからなのだ。カツミがいなかったら自分の選択はひとつしかなかった。

 自分はいつも、他人から認められることで自分の価値を決めている。他人を満足させることが、喜びとなっている。みずからの望みなのに、その中心に自分はいない。
 時間の流れが速すぎる。自分こそ、まだこんなに気持ちの置き場に迷っている。何が本当の望みなのか分からなくなっている。──分からない。でもこれで良かったとも思える。そう思うしかないのだとも。

 ◇

 高速を降りた車は海沿いの一般道を進む。鉛色の海に銀色の波頭がうねる。葉の落ちた街路樹が枝を震わせながら寒風に抗っている。
 雪は先ほどより幾分穏やかに降っていた。夜には降り止むかもしれないな。そう思いながら、シドは懐かしい風景に目をやった。

 道の左側は海岸線。右側には緩やかな山並みが延々と続いていた。山の中腹にはゆったりと間隔を置いて別荘が点在している。ジェイの住む別邸もその中にあった。

 やがて車は右折して海に別れを告げ、山並みの一点を目指す。山裾を抱く針葉樹の森を走り抜けた車は、いかつい石の門を一つ潜った。敷地内に入ってからもだいぶ距離がある。このひと山全てが、ミューグレー家の私有地なのだ。

 シドは、初めてここを訪れた時のことを鮮明に思い出す。親が開業医とはいえ中流家庭で育ったシドには、全てが驚きだったのだ。王家から称号を賜った貴族。その意味をまざまざと見せつけられたあの日。

 ようやく視界に入って来た豪奢な屋敷は、あの日と変わらずどっしりとした石の壁に枯れた蔦を絡ませていた。別邸とはいえ、三階建てで高い尖塔まである城のような邸宅である。広い玄関ホールは吹き抜けで、優美な階段が渦を巻きながら上階に伸びている。
 高い窓。煌びやかなシャンデリア。意匠の凝らされた重厚な家具。空調と床暖房は完備されているのに、ご丁寧に石造りの立派な暖炉まである。

 邸宅の前庭には大きな樹が植えられていた。枝先にある蕾はまだ硬い。だが春になると、真っ先に大きな花を咲かせるのだ。甘い香りのする白い花。それはまるで小鳥が飛び立つ姿に見える。

 一階の南にある古風な窓から、黄昏色の灯りがもれていた。それを認めたシドが、荘厳な玄関アプローチに車をゆっくり横付けする。
「着いたよ」
 助手席で眠っているカツミの頬を指でつつく。
「……ん?」
「着いたよ。先に行ってくれないかな。車をガレージに入れるから」
「あ、うん」
 寝ぼけ眼で窓外を見たカツミが、ぎょっとしたように目を見開いた。

 ──他はいらない。カツミから聞かされた言葉が脳裏をよぎる。雪の絨毯が敷かれた石段を、彼が上っていく。選ばれし者の戴冠式のように。

 できることならこのまま立ち去りたい。シドはそんな衝動にかられながら、溜息を重ねて逃げ道を塞ぐ。
 今はジェイを見ているだけでいい。彼をこころに刻むだけで。それがぎりぎりの選択。彼をこの目に映せないことが、自分には一番つらいのだから。

 ガレージに駐車すると、シドはひと呼吸おいてからドアを開けた。こころの準備? そんなものは、もとより出来てはいなかった。