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ONE 第二十五話 死から生へ

 喉の奥が疼くような、いたたまれない焦燥感。何が願いで、何が欲しくて、何を伝えたいと思っていたのか。望みが焦りにかき乱されて霧散する。
 ジェイの顔を見たとたん、カツミは自分の気持ちが切なさだけに染まるのを感じた。
 こんなことを言いたいわけじゃない。困らせるようなことは言うまい。思いやって少しでも安心させたい。そうすることで自己暗示をかけたいと……思っていたはずなのに。

「ごめん。ジェイ」
「分かってるよ」
 口ごもったカツミにジェイがふっと目を細めた。だから言葉にしなくていい。そう聞こえた気がして、カツミは声が出せなくなる。
「自分を虐めるな。私はここにいるだろう?」
 カツミの瞳が見る間に潤んでいく。
「私はお前がいてくれるだけでいい。他はいらないよ。ずっとこうして、触れて見つめて存在を確かめて、甘えていてほしい。勝手だろう?」

 美しい瞳に涙を滲ませ、カツミが本音をこぼす。
「連れていってくれる?」
 ジェイがわずかに眉を寄せた。それこそが本当の望み。しかし同時に、決して受け入れられないこと。

 カツミの双眸が本心を炙り出す。隠しても誤魔化しても一番の望みを映し出す。カツミは、まるで鏡のように相対する者の本心を暴く。
 真実を映す鏡。ジェイはその鏡に魅了されたのだ。

 ──ずっと側にいて。離れないで。忘れないで。
 それはジェイがカツミに願っていることだった。だがこの言葉は、生者にしか意味がない。死者には無価値なのだ。

 ジェイは思う。自分の言葉が──カツミというフィルムに映す色が──彼を生かすのだと。
 カツミはまだ透明なままだ。自分が死という色を突き付ければ、それをそのまま映しとる。そして生という色を与えれば、それもまたそのまま投影される。
 向ける言葉のひとつひとつが、カツミのなかに沁みとおる。この口に上らせる言葉ひとつで、愛するものをどちらにも振り向けることができる。

 ──死から生へ。カツミを生かすために言わなければならないこと。
 ジェイには分かっていた。カツミはもう決意しているのだと。ただその決意を自分に認めてほしいのだ。背中を押してほしいのだ。

「俺が一人でいられるなんて思ってた? たった一人でいられるなんて思ってた?」
「カツミ」
「俺の一番望んでたこと知ってた?」
 ジェイがカツミの首の痣に手を触れた。シドの指痕がまだ残る首筋。その痕に指を添わせると、カツミが細く息を飲む。

「知ってたよ。けれど私はお前に生きててほしい」
 独占欲は相手を殺す。それはフィーアによって裏付けされていた。ジェイは自分の独占欲が満たされないことに落胆しながらも、みずからの死によってカツミの持つ可能性を殺さずに済むことに安堵する。
 もし自分にまだ時間が残されていたら……。しかし、ジェイはそこで思考を打ち切った。無意味な仮定に思いを巡らす意味など、どこにもなかったからだ。

「私はカツミに生きててほしい。それだけが願いだ」
 葛藤を押し殺してジェイが告げる。いのちそのものである美しい瞳から涙が零れ落ちるのを見つめながら。

「それが望みなの?」
 ジェイの本当の望みは、この寮の屋上から命を投げ捨ててしまった魂が持ち去っていた。
 フィーアはジェイに教えていたのだ。愛情と欲との違いを。与えることと求めることの違いを。差し出すことと奪うこととの違いを。そして、ほんのわずかの生と死の隙間に、どれだけ多くのものが隠されているのかを。

 本当の望みを超えて、視点を自己から相手に向けて。相手を生かすためになにが必要か。それだけを思う。
 ジェイは自身の本心を捨てて、それを超えたものに置き換えた。カツミを生かすために。それだけのために。

「そう。それが望みだ。これは終わりじゃない。始まりなんだよ」
「始まり?」

 流れる涙を拭おうとせず、ジェイを仰ぎ見るカツミ。その顔を優しく見下ろしながらジェイが微笑む。告げる言葉のひとつひとつをカツミのなかに映し込むために。

 透明で無垢なこころの水面に、自分が一滴のインクを落とすだけで、カツミの魂はその色に染まっていく。
 透明な大気がいのちのクリムゾンに染まる。
 この幼い魂は自分の向ける言葉ひとつで、いかようにも染まっていく。終わらせるわけにはいかないのだ。

「死は消滅じゃない。一つの通過点だ。お前がいなければ、私がいた意味はなくなってしまう。そこで終わってしまうんだよ」
「ジェイのいた意味?」
「カツミは私がいたことで知ったことがあるだろう?」
 ──これは終わりではない。全ての始まり。
 ジェイのいた意味は自分のなかにある。死によってしか得られない生。ジェイの死という通過点を通らなければ、繋いで行けないいのち。

「終りじゃないの? なくならないの?」
「そうしてしまいたいのかい?」

 問い返されて、カツミは心の中でかぶりを振る。
 やっと掴み取れたこの想いを失くしてしまうことなど、決して出来ないと思っていた。
 想いを残す。それは自分が生きることでしか叶わないのだ。

「私はお前のことしか見えないんだ。お前のことしか愛せない。こんな想いが消えると思うかい? 永遠に無くなってしまうと思うかい?」

 カツミは、あの黄昏に溶ける墓地で死に問われたことを思い出していた。生と死がどれだけ近くにあるのかということを。死はどんなに抗おうと必ずこの身に訪れることを。
 与えられている時間は無限ではないのだ。そのわずかな時間の中で、いま自分を包む人が向けてくれるもの。それがどれだけ貴重かを、カツミはようやく知ることが出来た。

 ──いのちのクリムゾン。
 ジェイがカツミに映したものは、言葉にならない。
 だが、カツミはそれをどうにかして言葉に変えようとした。

「好きだよ。ジェイ」
 切ない告白にジェイの問いが重ねられた。
「自分のことも好きかい? 私が好きなお前のことを、私と同じくらい好きかい?」
「ジェイ」
「そう思ってくれることが、私の一番の望みだ」

 今ならば、カツミはジェイの真意を理解できる。ジェイが差し出してくれる想いは温かく優しい。しかしとても厳しいのだ。
 カツミは身震いした。自分のことを好きになる。自分のことを受け入れる。それはとても難しいことだった。でも少なくとも今だけは、ジェイの想いに応えなければ。少なくとも今だけは……。

 自分を抱きしめる肩が震えている。カツミは、今まで一度もそれを感じたことがなかった。
 ジェイが涙を堪えている。自分以上の葛藤の中で、心の叫びの中で、涙を堪えている。
 その叫びが、カツミには聞こえるようだった。


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如月ふあ
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