ふたつのうつわ 第10話 下絵と釉掛け
下絵のために用意された絵具は、プラスチックのケースに入った海外のものだった。色が鮮やかなのが特徴らしい。
ブライトレッド。59ミリリットル。
「それひとつで1000円以上するから、こぼすなよ」
ナツキがニヤリと笑いながら耳打ちすると、トーマが目を見開く。
それを聞いた先生が、初回限定サービスだよと笑った。
「赤い色はどうしても高価なんだ。国内の下絵具は、朱色がかってることもあるしね。有田の柿右衛門様式(かきえもんようしき)とかね。逆に、昔から青い色は原料が豊富だったんじゃないかな。染付(そめつけ)のうつわはよく見るだろう? 呉須(ごす)っていう青い絵の具を使ったやつだ」
「ほら、青い絵の具で絵付けされた、唐草文様(からくさもんよう)の蕎麦ちょことかさ」
「ああ! あれかあ」
ナツキの言葉に、トーマはようやくイメージがわいたようだ。
「呉須絵は山水画のように、ひと筆で勢いよく描くからね。濃淡をつけてね。だから、練習がいる。今回は練習いらずの新作を使おうか」
そう言って先生が取り出したのは、丸い小さなスポンジのついた棒。ステンシルに使うスポンジである。決まった道具などないのだ。必要なものは作ったり、探しに行く。これは百円ショップで買ったものである。
先生がお手本を見せた。赤い絵の具をよく混ぜると、少しとって絵皿に移す。
絵の具にステンシルのスポンジを押し付けて染み込ませる。
自分の素焼きの茶碗に、梅の花びらのようにポンポンと五つの丸を押した。
スポンジなので、滲みがでて濃淡になっている。
外側に五つ。内側の底に、ひとつの花が咲いた。
次に取り出したのは、大きなスポイト。いっちんと呼ばれる道具である。しかし、先生はそれを作業台の上に置いたまま、別の物を取り出す。
柔らかいプラスチックの容器に、細い口金のついた小さなものだ。
「これは、もともと絵の具が入ってた容器なんだけどね。いっちんに比べると詰まりやすいけど、細い線が引けるんだよ。ナツキの考案なんだ」
「俺、いっちんで線引こうとして、化粧土をぶちまけたんだよ。スポイトとノズルの継ぎ目が外れちゃってさあ。だから、何かいいのがないかなと思って」
どうやら、道具の開発についても、受け継がれているらしい。
新型いっちんには、白化粧泥が入っていた。
細い口金をしっかり水で洗い、先が通るのを確認してから、絵皿の上に試し描きをする。泥が出るのを確認すると、花の中心近くに五つ。ちょんちょんと泥の粒をのせる。
「泥が盛り上がってるのが見えるかな。しっかり乾いてから、透明釉をかけて焼くと、この盛り上がりがそのまま残るんだよ」
透明釉をかけた部分はアイボリー。梅は赤。シベは白になる。いっちんの立体感がアクセントになるはずだ。
先生の見本通りに花とシベを描いたトーマは、難なく作業を終了させた。
教えられた通りにやるのは容易い。この方法を見つけるまでが、試行錯誤の繰り返しなのだ。
作業を終えたトーマがホッと一息つくと、すかさずノーラが膝に乗った。
背中を撫でられると、ゴロゴロと機嫌がいい。
その時、トーマが不思議そうに首を傾げた。
「ねえ、ナツキ」
「ん?」
「この梅の花。ブライトレッドって言ってたよね。ブライトレッドって」
「あれっ?」
トーマの言葉を遮ると、ナツキが隣の展示室に駆け込む。
ノーラを抱き上げ、慌てて後を追ったトーマは、すぐに相手の行動の意味を察した。
あのトルコ青のうつわは、もう水色ではない。
そこにあったのは、鮮やかなターコイズブルー。
それだけではなかった。昨日まで見ていた作品が、どれもこれも鮮やかに見える。
漆黒の黒天目。深い緑の織部。濃紺のなまこ釉。
ソファの色も、テーブルや棚の色も違う。まるで薄紙を剥いだように、くっきりとしていた。
『大きさの変化が消えたなら、後は速い。そういう実例をたくさん見て来たからね』
ナツキは博士の言葉を思い出した。
レイヤーが取れたのだと、実感しながら。
◇
「やあ、びっくりしたねえ。この分だと、明日の学園は大騒ぎかもしれないよ」
先生の言葉に、二人はハッとした。この地域で、一斉にレイヤーが消えている可能性があるのだ。
「外に出てみたらどうだい?」
先生の提案の意味は、ドアを開けた途端に分かった。
ナツキとトーマは顔を見合わせ、そしてまた夜空を仰ぐ。
街灯のほとんどない島の夜空。雲のない漆黒の天蓋を穿(うが)つ星の光。
真夏の濃い天の川はもう見えないが、これまでとは比較にならないほど、多くの星が見えた。
森の色は、海の色は、草花の色はどうだろう。夕焼けの色は、朝焼けの色は。
明日の朝は、世界が一変しているかもしれない。
「さて、今日の最終作業だな。透明釉をかけようか。イッチンの部分は、ドライヤーで乾かしてしまおう」
マイペースな先生が、透明釉の入ったバケツをかき混ぜていた。その間に、トーマはシべの部分を完全に乾かす。
釉薬は時間が経つと成分が沈澱する。上澄みは水なのだ。底に溜まった釉薬が溶けると、トーマの前で先生が釉掛けをした。
計量カップに移した釉薬をうつわの中に入れて、三秒してから流す。外側は高台を摘むと、釉薬バケツに高台脇まで沈めた。また三秒で引き上げる。
「まあ、一気にドボンでもいいけどね。釉薬のつけ方も色々あるから、徐々に覚えたらいいよ。透明釉は扱いが楽だし、下手に流れたりもしないから、気にせずやっていいよ」
トーマは一気に茶碗をバケツに沈めた。三秒して引き上げる。口縁に釉薬のしずくが留まっていた。縁を下げたまま、釉薬を口縁の左右に流して釉の厚みを均等にする。作品板に置いて完了。
皿は裏の真ん中、作業台に接する部分に撥水剤を塗ってから、同じようにずぶがけ。
最後に、茶碗と皿のテーブルに接する面の釉薬を拭き取る。これを怠ると、棚板にくっついてしまうからだ。
ナツキの作品の汚しも上手くいったようだ。
後は、先生の釉がけを待って本焼きするだけ。
「学園祭には間に合わせるからね。明日の美術は私の担当だけど、どうしようかな。スケッチでもするかな」
外部講師の先生は、美術教員の補助的な立場である。日頃は陶芸を教えていた。しかし、なかなか興味を持ってもらえない。
トーマのような生徒は珍しかった。
明日が楽しみのような、怖いような。
ダークグレーになった猫は、そんなことはお構いなしで、餌をねだってにゃあと鳴いた。