ONE 第四話 昔の恋人
ジェイが告げた事実は、思いもよらぬものだった。
「定期検査で、彼に薬物反応が出た」
「薬物って、まさか」
「麻薬だ。再検査の指示が出てる。だから関わるなと言ってるんだよ」
視線を逸らしたカツミが黙り込む。それを見たジェイは確信してしまう。単なる興味ではない。恋愛感情だと。本人がそれに気づいていないだけなのだ。
カツミがフィーアと交流を持つと、ジェイには都合の悪いことがあった。カツミに隠している自分の過去を、暴かれる恐れがあったのだ。
その事実を知ってしまえば、カツミは自分から去って行くだろう。ジェイにとってのフィーアは、二重の意味での脅威だった。
人のこころは縛れない。見えないものだから、手に出来ないから。だがジェイは、カツミを自分の中だけで縛っていたかった。可能性や自由を奪ってでも。そのようなことが可能ならば。
ジェイは焦りを感じていたのだ。時間がないことに。自分にはもう時間がないことに。
「セアラちゃん、来てたのか?」
ジェイが急に話題を変えた。カツミの沈黙に耐えられなかったのだ。カツミは、どうでもいいというように、さらっと答えた。
「来てたよ」
「あいも変わらず冷たいようだな」
「そうかな」
カツミの優先順位は決まっていた。セアラは数少ない理解者だ。拒絶の理由はない。気を持たせているつもりもない。それは態度ではっきり示していると思っていた。
またすぐに黙り込んだカツミを見て、ジェイは内心ほぞを噛んだ。カツミがフィーアのことを考えているのは手に取るように分かる。彼の名を口にした時点で、こうなることは明白だった。
だが他に方法がなかったのだ。全ては自分の招いたこと。その報いを受けることになるのだろうか。
最後のあがきをするために、ジェイがカツミを抱き寄せ、きっぱりした口調で釘を刺した。自業自得だと己を嘲りながら。
「深入りするな。カツミ」
「えっ?」
カツミが声をあげた。思考を覚られていたことも意外だったが、なにより強い口調に驚いたのだ。
ジェイの愛情は、カツミには心地のいいものだった。自由と拠り所を同時に与えてくれる相手。守られ、温められ、癒される。そこに強い束縛を感じたことはない。
だが今は違う。カツミは戸惑いを隠せなかった。
「頼む。お前のためだ」
「……分かった」
恐怖に身震いしながら、カツミが広い胸に縋りついた。無くせないものはひとつしかない。それをあらためて思い知らされていた。
◇
翌日の夕方、カツミはシド・レイモンドのいる医務室を訪れた。
医務室は基地内に数か所あるが、どの場所も軍医一人で担当している。人員が足りないのは明白だが、止むを得ない理由があった。有事の際は大きな危険を伴ううえ、平時であっても毎日残業が必要な仕事量。なのに特区が求めるのは、これもまたトップクラスの医師ばかりだったからだ。
実績を積むには最適の場所だが、現実として割に合わない。ゲートの外のほうが、よほど楽に仕事ができるのだから。
シドが栗色の瞳を細め、カツミに静かな笑みを向けた。デスクには山積みの検診書類。忙しい軍医の手を煩わせるカツミだが、疑問と不満が心に渦巻いていた。
シドはカツミの九歳年上。ジェイとは同い年である。『分からない奴』。カツミはシドに対して、そう思っていた。完成されたポーカーフェイスは、昨日今日身についたものではない。その下で何を思っているのか、皆目見当がつかないのだ。
不眠症のカツミは、入隊直後から度々この部屋を訪れていた。シドは若い外科医だが、特区に配属されるほど優秀で専門外の分野においても豊富な医療知識を持っている。カツミには常に的確な助言を与えていた。
だがカツミはその優しさを素直に受け取れない。理由は単純だった。シドはジェイの昔の恋人なのだ。
シドは今でもジェイのことを愛しているのでは?
邪推かもしれない。しかしカツミは、そう感じることがあった。シドに勝てる要素など自分には何ひとつない。それがカツミの自己評価である。ジェイが彼を選んでいるという事実があるにもかかわらず。
軍服の上に診察着をはおり、大きな事務机の向こうにシドは座っていた。今日もまた残業中なのだ。
癖のある茶色の髪は肩に届き、女性的な印象すら与える。ただし、柔らかなのは見た目だけである。
「安定剤は効いたのかな?」
「効いたよ。もう残ってねぇけど」
カツミは入隊一年未満の少尉で、相手は少佐。シドは上官なのだ。だがカツミは、いつもこんな調子だった。
時間外診療の患者に、やれやれと手を止めるシド。椅子に座ったカツミが切り出す言葉は分かっていた。
「来た理由わかる?」
「フィーア・ブルーム少尉だね?」
咎めるような顔をしたシドが即答した。
実のところ、シドはジェイから連絡を受けていたのだ。カツミがフィーアのことを言い出したら、関わりを止めるよう指導してくれと。
耳に残る言葉にやるせなさを感じながら、シドが少しばかり厳しい顔をつくる。だが、それでひるむカツミではない。疑問が追加された。
「本当なのか? 麻薬だなんて」
「常用とみられる検査値だ。カツミは様子がおかしいと思ってたのか?」
「まあね」
ジェイがフィーアへの関与を止めたことに、カツミは戸惑いと反発を覚えているらしい。シドにはカツミの心情が手に取るように分かった。
シドが内心で毒づく。
ジェイは相変わらずカツミに甘すぎる。これまでカツミの思考や行動を一切縛って来なかったんだろう。それを突然止めれば、反発するのは当然じゃないか。
ついでにカツミにも言ってやりたい。お前が求めるのは、ジェイとは違った緩やかな意見なんだろう? しかし、制約の息苦しさに負けて部外者の軍医に逃げ込むなんざ、筋違いもいいところだ。
頭のなかで散々不満を言い散らかしたシドだったが、そんな心情は一切見せず、カツミに質問した。
「ジェイは、なんて言ったんだ?」
「関わるなって」
カツミが不満気に答えた。
「なるほど。ジェイらしいな」
シドの言葉が意外だったのか、何度か瞬いてからカツミが訊き返す。
「らしいって、どういうこと?」
「結局、あの人はカツミを放し飼いに出来ないのさ」
見開かれていたカツミの瞳が訝しげに揺れた。
「それだけ愛情が深いんだよ。思い通りにならないと嫌なんだ」
「そうかな」
言葉に混ぜた嫌味はカツミに通用しなかったらしい。シドから漏れた自嘲の笑み。乱れた感情が黒く染まる。
「束縛されるのは嫌いじゃないのかい?」
それはまさに、最愛の人から恋敵を引き離そうとする者のあがきだった。だがシドは、カツミのきっぱりした返事で想いの深さを突き付けられる。
「そりゃあ嫌いだよ。でもジェイに置いてかれるくらいなら束縛を選ぶ」
策士策に溺れるだな。失敗をさとったシドは、内心で大きな溜息をついた。