アデル 第一話 律
──時を遡ること、一年前。20XX年3月。
「ただいま」
宇野夕星(うの ゆうせい)は、彼が開発した最新のヒーラー型アンドロイド、コードネーム『アデル』の製品化に向け、一年間の試験運用を開始した。試験運用という名の公私混同お持ち帰り期間であるが、言明は避けておく。
夕星の自宅は亡き父が建てた和洋折衷の洋館で、鎌倉市の外れにある。うろこのような深緑色の屋根をのせた二階建て。洒落た外観は書道家であった父の好みだった。屋敷の裏手には竹林があり、手前の庭には大きな桜の木が植えられている。
夕星は三十八歳。両親はもう他界しており、今は姉と二人で暮らしていた。父の跡を継いだ書道家の姉も夕星自身も独身。もう一人、彼には弟がいて、夕星は三人きょうだいの真ん中ということになる。
「おかえ……。きゃああああ!」
案の定というか、期待を裏切ることのない悲鳴が屋敷の居間に響き渡った。アデルを目にした姉の反応である。
「夕星っ! こ、この子!」
「姉ちゃん、落ち着いて。アデルだ。試験運用で、夜は会社から連れてくるって言ってたろ?」
「言ってたけど、こんな美少年だなんて聞いてないわよっ! ははーん?」
切れ長の目を細めて顎を上げた姉に、夕星はうんざりした気分となる。
アデルの外見を一言で言い表すとしたら、美しい球体関節人形だ。年齢設定十四歳の美少年。白磁のようなキメの細かいスキンに覆われ、大きなアクアマリンの瞳。癖のあるふわりとした淡いプラチナブロンドが、整った顔を縁取っている。
「あんたの趣味が、よーく分かったわ」
ニタリとする姉に夕星は心の中でボソリと返す。姉ちゃんこそ隠れ腐女子のくせに。きっと今、耽美系漫画の金字塔と言われた作品が脳内でダンスを踊ってるはずだ。
「アデル。葉月(はづき)姉ちゃんだ。挨拶して」
姉の追求を避け、夕星は後ろに立ってるアデルを呼んだ。その声にスッと歩み出たアデルが、夕星の脇をすり抜けると葉月に手を差し出す。
「アデルです。葉月お姉さま。宜しくお願い致します」
「きゃああああ!」
握手もそこそこに、今度もまた黄色い悲鳴が上がった。夕星は額に手を置き、アデルは静止している。表情は『戸惑い』の顔を作り、きょとんとしていた。
「夕星! 今度の個展にアデル連れてっていい? きっと客足倍増よぉ!」
暴走する姉と、次の言動を見出せない試作機のアデル。その間に立つ夕星。
どんな試験運用となることやら……。げんなりしながら夕星は居間の壁に掛けられている父の書に目をやった。
額縁の中の文字は一文字のみ。『律』。律する。自律の律である。己を律すること、すなわち心を自在に奏でること。
今、その場所から最も遠いところにいるようだと夕星は思う。自分にしてみても、この試作機のアデルにしても。
その時、スーツのポケットに入れていた携帯端末が振動した。メッセージの送信者は夕星の大学時代の先輩、五味英治(ごみ えいじ)である。随分と久しぶりの連絡に、夕星は胸騒ぎを覚えた。