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ONE 第九話 嵐の夜

 フィーアの部屋を出たシドは、そのままカツミの居室に足を運んだ。いぶかるジェイを無視して半ば強引に踏み入ると、すぐに自動ドアがスライドしてぴたりと部屋を閉ざす。滑走路の爆音すら阻む防音仕様の個室は、しんと静まり返っていた。

 殺風景な部屋だ。入隊当初からほとんど変わっていないカツミの部屋を見るたび、シドは寒気を覚える。

 特区における兵士の待遇は他の基地とは異なる。新兵にも少尉の階級と個室が与えられ、各部屋には生活に必要な設備や家具が全て揃っていた。
 合理主義の特区である。全てが機能的に造られた室内はツンとして愛想もなく、居住者に孤独を覚えさせた。
 それゆえ、他の隊員は無機質な室内に様々な私物を持ち込んでいる。趣味のものであったり、家族や恋人の写真であったり、外との繋がりを意識して孤独感を薄めようとしていた。

 しかしカツミの部屋には最低限の日用品と衣類しかない。それらがカツミを主張することもない。
 何もいらない。残したいものもない。何も信じられないと、氷の砦のように閉ざされた部屋。寒々しい部屋はカツミのこころそのものだ。
 見回しているうちに、シドは全身が凍える思いとなる。ジェイはカツミのこころが体温を取り戻すまで温め続けることができるのだろうか。

「ジェイ。カツミは戻らないよ」
 ──明日まで。もしかしたら、この先もずっと。
 投げつけた言葉はどこにも届かない。ジェイはそんなことはとっくに知っていると言いたげに肩を竦めただけだった。
 ジェイは必要と判断した情報であれば、即座に入手する。シドがフィーアに施している医療行為も全て把握しているのだろう。
 シドの断定を無視して、ジェイが質問を投げ返した。

「薬を切るのか?」
「上の指示だからね。今夜の離脱は、けっこうキツイと思うよ」
「ずいぶんと無慈悲な医者だな」
「お生憎さま。人格者だったら、こんな仕事を選んだりしないよ」
 シドの軽口に再び肩を竦めたジェイが、すっと窓外に視線を送った。
 闇に滲む管制塔の灯り。外では冷たい雨が降っている。風が強いのだろう。窓を打ちながら雨のしずくが流れていく。

 シドは、ジェイがフィーアのことを言い出した時からずっと疑問を持っていた。
 ジェイはなぜ、こんなに焦っているのだろう。束縛すれば反発するカツミの性格など、分かり切っていたはずだ。結果は予想通りじゃないか。このまま一生飼い殺しにでもする気なのか。自分の檻のなかで、このまま。

 だがシドは突如、自分の思考に強い違和感を持った。弾かれたように顔を上げる。視線の先には彼の存在など忘れたように思いに沈むジェイ。

 窓を伝う雨のしずくが次第に速度を上げる。死の冬を手招くように。留まることを拒むように。時が止まることを知らぬように。無慈悲に。それこそ無慈悲に。

 まさか。脳裏をかすめた予測にシドは身震いをした。
 いや、早すぎる。だがシドにはまだ、その事実に向き合う覚悟がなかった。
 考えすぎだ。シドは考えるのをやめた。音もなく恐怖が押し寄せる。留まることを知らぬ濁流のように。

 ◇

 その時のことをカツミは覚えていない。ただ彼に未知の能力が現れたのは確かだった。

 シドがフィーアに処方した減薬時の身体反応を抑える薬。その薬効が切れたとたん、フィーアに津波のような離脱症状が襲い掛かった。
 カツミの予測をはるかに超える激しさ。彼は何度も医務室への通報を考えたが、軍医に言われることは分かっていた。最善は尽くした。もうできることはないと。

 特区では徹底的に能力主義が貫かれていた。使える道具は使い倒し、その逆はきっぱりと切って捨てる。
 フィーアはA級の能力者。だからこその特別待遇である。これ以上は求められないのだ。

 身を裂くような苦痛の中に、フィーアは投げ込まれていた。能力者は身体保持能力も治癒能力も高い。それでも彼は自分をコントロールできなかった。身悶えしながら床を這い、怯えて叫び声をあげ続けた。
 カツミにできたのは、フィーアを抱き締めることだけだった。そのさなかに、突如未知の能力が現れたのだ。

 明け方には嵐は去っていた。ずっと窓を打ち付けていた雨は上がり、青い光が窓外を染めている。少しだけ眠っていたらしい。腕の中のフィーアもまた眠っていた。穏やかな寝息を聞き、カツミが安堵の息を漏らす。

 座り込んでいたリノリウムの床は冷たい。静かな朝だった。ずっと待ち望んだ静寂の中にいた。永遠に来ないとさえ思った夜明け。だが時は決して止まらないのだ。何があっても。新しく昇るモアナが死に絶えた後も。

 カツミはフィーアの呼吸を数えていた。ひとつ、ふたつと。穏やかな寝息を。いのちのしるしを。
 ひどく疲れていた。腕は痺れている。しかしカツミは動く気になれなかった。これまで手にしたことのない、新しいものを見つけたと感じていた。
 相手を起こさぬように、そっと髪に唇を押し当てる。愛おしい。ただそう感じていた。
「フィーア」
 血を分けた魂にカツミが囁く。やがてフィーアが目を覚ますと、優しく声をかけた。

「良かった。気分はどう?」
 動きを止めたフィーアが、変化を確かめるように瞼を閉じた。頬に伝う涙。雨上がりの梢から、名残のしずくが落ちるように。
「カツミが?」
「うん。そうみたい」
「ああ。なんか霧が晴れたみたいだ。こんなに世界が青いだなんて」
 その時。フィーアの脳裏に、一年前から聞こえる同じ言葉が降って来た。

 ──さあ、認めなさい。纏う呪いを清めし者よ。彼に託しなさい。これまでずっと、あなたの祖先がしてきたように。

 フィーア。彼はコインの裏側。三か月先に生まれた兄は、魂の双子だった。

 ◇

 夜もずいぶんと更けてから、カツミはフィーアの部屋を出た。自室の前に戻ったものの、そこで二の足を踏む。部屋の中にジェイがいる。そう思ったのだ。
 関わらないと約束していた。それを裏切っていた。傷つけていた。
 大きく息を吸い込みドアを開けると、ジェイの姿はすぐに見えた。だが彼は眠っていた。端正な顔は青白く、やつれてさえ見える。

 ごめんね。心の中でカツミがつぶやく。
「ごめんね」
 今度は声にして。
 ジェイ以上なんてあり得ない。でもジェイは唯一しか認めないだろう。こんな時が来るなんて。ジェイだけが全てじゃない日が来るなんて。

「ジェイ」
 呼んでみた。今度は彼が目覚めるように。
 カツミは心で叫ぶ。ジェイが言うならどんな罰も受ける。だから、だから突き放さないで!
 目を覚ましたジェイがカツミの背に腕をまわした。
 二人の間に言葉はない。抱き締める腕の力だけが増していく。カツミは息を殺すと、ジェイの抱擁をただ受け入れていた。