ありのままの自分でいるということ
はじめに
これを書いている現在(2024/3/22 午前1時50分)、激しい動悸がしている。
最近、人間との接し方の意識を大きく変えてくれた人(以下A)との衝突があって、その関係は終わりを迎えてしまったけれど、自身について考える良いきっかけになったので、思考の整理としてつらつらと書き連ねていこうと思う。
私は好きな人のためなら本心を隠して相手の求めるように振る舞ってしまう性格だった。それが自らにとって良くない事だと気がついたのは最近のことだ。今思い返してみれば、自然なまでに不自然を演じていた。不自然でいることが自然になっていた。その時には気づかなかったけれど、私の心はきっと泣いていたんだと思う。もちろんこれを誰かに責任転嫁するつもりはなくて、ただただ自分の責任として受け止めている。自分と向き合うことを怠った自分の責任。受け止めるということができるようになったのも、ここ最近の話だ。
自らを偽ってAと関係を築こうとしていた時点で、私はAと向き合おうとしていなかったのだと思う。表面上ではどんなに「人と向き合ってまともな関係を築きたい」と思ったとしても、それは所詮「不自然な私」が勝手にやっているだけの話で、本来の自分は遠くからそれを見つめているだけだったのかもしれない。
私はAのことを全く知ることはできなくて、たとえ知れたとしても煙のようにすぐ消え去ってしまった。文字通り実態が見えなかった。もっと早く、それを分かりたかった。私はAのことも、そして誰のことも知らないんだと思い知りたかった。それでも「好きだ」と思うことは出来た。どこまでも純粋なその「好き」の根拠はどこにもない。いや、どこにもないということ自体が最大の根拠かもわからない。だってそれは自分でも気が付かないぐらい、心の深い部分にある「ありのままの本音」なのだろうから。
もう、自分を偽るのはやめよう。
私はAも含めて人と会っていく中で、打たれ弱くて赤ちゃんみたいに免疫がない自分のことを思い知って、それからホイップクリームの最後みたいな勇気を振り絞ろう。誰にとっても自然な自分を出すのは怖いことで、きっといつまで経っても慣れることはないだろう。でも、勇気は作り出すことができる。考えることができれば。諦めなければ。自分が自分でいるための衣として、私は勇気を身に纏う。私にとってありのままの自分でいることは不自然で、だからこそ、自分を曝け出すのだ。それだけの覚悟と理性を私は「勇気」と呼ぶ。
書き終えて
文字を打つのは好きだ。文章として読むに堪えるものであるかはわからないけれど、思考が整理されていって胸が軽くなっていく感覚を覚えるからだ。MacBookの心地よいタイピング音と、隣にあるディフューザーの香りも相まって、リラックスできているような気がする。
現在の時刻は午前2時41分、動悸は少しおさまってきたようだ。