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思考供述

痛みは反動だよ。友達が話を聞いてくれる、飲みにつれてってくれるったって、それが終わったら倍の痛みが襲ってくる。電車の中でうなだれて、家に帰るまでの道のりがいつもより長く、いざ眠る時も心拍数は120オーバーだよ。それは起きてもずっと変わらない。飲み程度で解消されるような悩みだったというだけだろ、良かったな。楽しいという感情が怖くなるほど、心の深層まで不安が到達している。そんな鈍くて鋭い不安だよ、酒程度で解消されるわけがない。もっとも俺の場合、酒を飲むと感情アンテナの感度が倍になって、より不安を感じるようになるだけなので飲まないことにした。そのことに昨日気が付いた。映画も一人で観れなくなっていた。明かりを消して、モニターと俺の顔だけが浮かび上がった世界で、静かに泣いた。そうならないようにコメディ映画を選んだのに、内容と感情のギャップで余計に不安が増長した。いま文字をタイピングする左手が震えているらしいことに気が付いた。愚かだよね。

起きて思い出した瞬間に、それまでのツケといわんばかりに、不安が俺を取り囲んだ。布団は不安の象徴だよ。安心などできない。こうして感情を文字に起こしている今が一番安らぎに近い。幸せの具体例は個人で様々な解釈があると思うけど、俺は安らぎの事だと思う。「ショーシャンクの空に」で主人公が受刑者たちにビールをごちそうした時のような、静かな安らぎ。

ポジティブはネガティブには勝てないよ。そもそも人間の根幹はネガティブだ。落ち込むように作られている。ネガティブに唯一打ち勝てるものは、熱中だよ。熱狂、集中、なんでもいい。辛い心情をアートに起こしたり、デザインを考えたりすること。それをしている間だけは、辛い現実を子猫の如きか弱き存在に変換することができる。過去の経験からそれを肌で感じて理解しているつもりだが、「だったら今すぐそれをやりましょう!」とは残念ながらならないのだ。偽物の自己憐憫かな。

死にたい。俺の口癖は最近になって「あの世に行こうね」に変化した。座右の銘の「命あらばまた他日」は、本来の用途であれば当然前向きな意味で捉えることが出来るかもしれないが、俺の場合そうではない。「命が無ければまた会うことはできない。今をもってさようなら。」という意味に変化してきている。

ここは掃き溜めだよ。吐いた痰の中にもしかしたら清らかな水が1滴でも含まれているかもしれない。その雫を見つけ出し、俺の人生を1秒でも延長させることが出来たならば、ここでの行いも無駄ではなかったと思えるだろう。

俺が一番したいことは対話と抱擁。その人を理解し、その人を通じて己を理解する。そのプロセスを辿る道中だけは健康な人間に近づけている気がした。久しぶりに高揚感を味わった。人を愛するということは、一見他人思いの聖人君子のような行いに聞こえるかもしれない。だけど俺にとっては違うよ。人を愛するという事は、その人を愛する「自分」を愛するということだから、結局は自分のためだ。俺にとって他人思いな行動など存在しない。被災地への募金でさえ「弱き者を助けた自分」になりたいがための行動に過ぎない。君たちはヒカキンが被災したと言ったら物資を送るのか?募金をするのか?俺だったらしない。自分よりも強者だと認めているからだ。それにしても気持ちを書き出すのは良いことだな。自分でも思いもしなかった言葉がスラスラと出てくる。ふと、コミュニケーションの本質は「発見」だろうなと思った。

緑色の燈がうっとうしく見える、本来幸せな燈なのに、今見てもただ傷つくだけだ。アレだね、ゾンビは回復ポーションを投げられるとダメージを食らうみたいな、そんな感じ。ここ最近の生活を振り返ってもゾンビそっくりだな、俺。

俺がやろうとしている愛を裏返してみたら、どんな顔をしているだろうか。征服、支配、承認欲じゃなければいいな。俺は愛の内容を対話、理解、受容だと認識しているが、それをこなせるだろうか。征服、支配、承認を実現した時のことを少し考えて、イヤじゃない自分がまだいる。まだそういう自分が隠れている証拠だ。中学生がやるもぐらたたきみたいに、顔を出したら思いっきりぶん殴って感情を引っ込める以外の方法が見当たらない。根っからの聖人君子にはなれない。せいぜい悪感情を押し殺して、何でもないような顔をして人と接することしかできない。悪感情が湧くのを抑えることは一生かけても無理なのかもしれないな。

もうこういう自分イヤだな、悪感情に付き合うのも、すぐ嫉妬するのも、白黒思考なのも、全部疲れた。あーあ。どうしよっかな。

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