【恐怖の正体】”怖い”を考える
こんばんは、如月伊澄です。
ご無沙汰しております。
皆さんが怖いものは何ですか?
幽霊?怪物?
尖った針の先から甲殻類まで、人間の恐怖の対象はキリがありません。
ある意味、何でも「恐れる」ことが出来るのが人間の性質です。(故に神様や悪魔といったものが生まれたのかもしれません)
今回はこの本を読んで考えた「怖さ」について、お話していきたいと思います。あくまで考えたこと、なので正解も間違いもないよ!
【そもそも恐怖の定義とは?】
恐怖の正体では、このように「恐怖」を定義しています。
ちなみに「精神的視野狭窄」というのは、パニックになって目の前のことにしか、目が行かなくなる状態のことである。
目を閉じて、イメージして欲しい。
自分にとって危機感があり、不条理な状況におかれて、それしか目に入らない状態。
例えば、一本道の先にナイフを持った男が立っていて、彼は誰でもいいから暴力を振るいたいと考えている。ふと、目が合ってお互いを認識した瞬間、あなたはパニックになり、男の手にするナイフにしか目がいかなくなる。
次の行動は?なぜ自分だけがこんな目に?動けないうちに男がどんどん迫ってくる。ああ、なんて――
こんなパターンもあるだろう。
どうやら引っ越した先は、事故物件だったらしい。今のところなにもおかしなことは起きていないが、知ってしまうとなんとも不気味だ。
そもそも不動産屋から説明はなかったし、偶々知ってしまっただけで、自分から積極的に調べたわけでもない。そう思うと、壁のシミひとつでも、意味があるようで気になってきた。
明確に、自分に物理的な被害をもたらすだろう前者に比べ、まだ何かが起こったわけでも、何かが起こると決まっているわけでもない後者。
ただ、そこにある感情は、どちらも「恐怖」である。
ここからは、わかりやすくするために前者を①、後者を②と呼ぶこととする。
①は「暴力により怪我、あるいは命の危険」がある危機だ。
自分を狙って暴漢が襲ってきたわけでもなく(そもそも相手の考えていることなど、わからないとはいえ)、ただ出会ってしまったという不条理、そして目の前の危険にしか意識が向かないパニック状態。
これらは恐怖の定義に全て当てはまっている。
よほどの命知らずでなければ、恐怖を感じるシチュレーションだろう。
それでは②はどうだろうか?
事故物件だからといって、すぐに危険が及ぶわけではない。
確かに「事件があった場所」に知らずに住んでいる、というのは不条理だが、今すぐパニックになるほどのことだろうか?(筆者は間違いなくなるとはいえ)
恐怖の定義に接触している部分もあるとはいえ、全ての人が恐怖を覚えるシチュレーションではない。もちろん、何らかの形で霊障が起こるのであれば、危機感とパニックが発生し、ほとんどの人にとって恐怖の対象となるはずだ。
少し話は逸れるが「事故物件」や「幽霊」に対して恐怖を覚える割合は、「怖い話」を聞いたことがあるか、ないかで異なってくるのだろうか?
「そういう話」を聞くことで、これから起こりうることを想像し、恐怖するのか、それともそれらは根源的恐怖となるのか。
ここに今日テーマとして取り上げたいことが関わってくる。
今日のテーマは「自分に矢印が向かない”恐怖”をどう捉えるのか?」だ。
【対象は”あなた”か”誰か”か】
怖い話は好きだろうか?
幽霊、怪物、スプラッタに本当に怖いのは人間の悪意――様々な「怖い話」があるが、それらはあくまで「誰か」の体験談だったり、フィクションである。
ただし、そんな怖い話の中には「自己責任系」という名の、読む、聞く、見ることで、自身に対しても危害が及ぶ(と言われている)ものがあるのをご存じだろうか?
例えば・・・・・・でいくつか名前を出してもいいのだが、それによって危害が及んだと責任を問われても困るので、具体的な名前は伏せておく。そもそも、著者は怖いので、そういう怪談は読まない、見ないことにしている。いくつか名前を知っているだけだ。
市販されている小説でも、同じようなものがある。
私の好きなホラー作家の「澤村伊智」先生の著作で考えてみよう。
「ぼぎわんが来る」
「ぼぎわん」という正体不明の何か、にまつわる物語である。
以下にあらすじを引用しておく。
あくまで対象は「物語の中のキャラクター」である。彼らの反応や事象、それがもたらす結果に、読者は恐怖し、怯えることとなるのだが、ともかく自身に危害が及ぶわけではない。
物語の中の怖さとして(まあ、実はそうとも言っていられないわけだが)それを楽しむことができる。
【ずうのめ人形】
その物語を読んだら最後、人形による「死」が待っている。
という原稿を、読者はこの本の中で読み進めることとなる。
こちらも以下にあらすじを引用しておく。
ミステリ?嘘をつけ!怖すぎるだろ!
読んだら死ぬ本を、読者は読み進めることになる。
つまり、物語の世界を越えて、怪異の射程距離は「読者」にも届いてしまう。さらに言えば、一気にヤりに来るわけではなく、じわじわ来る恐怖なのが、タチが悪い。
そんなはずはない、といえばそうなのだが、もしかしたら・・・・・・を考えると、ぼぎわんに比べて怖さが倍増する。
まさに①危機感があって、②不条理(本を読んだだけなのに)であり、③解決のためには恐怖に怯えながら、本を読み進めるしかない。恐怖の一冊である。
あまりに怖いので、以前の職場の先輩と「これから読むから、もし私が死んだら後はヨロシク」とそんな会話をした覚えがある。その後、先輩がピンピンしてたから、私も読むことにした。
個人的な見解を述べると、やはり「対象が自分に向く」か「物語の中で完結する」かは、恐怖の質に大きな影響を与える気がする。
実際にそれが起こりそうか、そうでないか、も大きな要素のひとつだろう。
例えばホラー映画(原作は小説)の「リング」。
ビデオが一般的だった時代かつチェーンメールなど、恐怖の伝播がイメージできた時代だったからこそ、世間に大きな恐怖をもたらしたが、現代社会ではビデオはすでに姿を消し、今時の子にはその恐怖が伝わらないかもしれない。
「着信アリ」はどうだろう?
携帯電話は姿を消し、スマートフォンに取って代わった現代。着信自体はイメージしやすいとはいえ、携帯電話というツールが消えた今、その恐怖度はかなり異なるのではないだろうか?
そう考えると「物語」や「本」、「文章」という形で残る「怖さ」は、結構合理的なのかもしれない。いつの時代もそばにあって、映像がない分、イメージでどこまでも怖くなれる。
ちなみに、ミステリー小説を読んでいて殺人事件が起きても、ホラー小説とと違って怖くないのはなぜだろうか?同じく人が死んでいるというのに。
やはり、殺人犯は物語の中から出てこない、ことが大きいのではないだろうか?
あくまで彼らは人間なので(また、論理の世界の住人である)物語を抜け出して現実世界に影響を与えることはないし、基本的には「動機」があって殺人を犯している。不条理に誰でもいいからやった、ということもないわけだ。
そのように考えていくと、やはり「自分に向いた悪意や暴力」が、恐怖という感情において、重要な要素となる気がするのだが、どうだろうか?
【さいごに】
これらを踏まえて、怖い一文を考えてみた。
ぜひ、イメージしてみて欲しい。
おしまい。
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