えばっちお仕事ドロップアウト列伝シミン社会の辺境から「働かない権利」「反社会復帰」を偏狂に叫ぶ障害者雇用水増し事件に悲しくなる
えばっちお仕事ドロップアウト列伝
シミン社会の辺境から「働かない権利」「反社会復帰」を偏狂に叫ぶ
障害者雇用水増し事件に悲しくなる
二〇一八年に発覚した「障害者雇用水増事件」に哀しくなる。「障害者雇用」が蔑ろにされていたことに哀しくなってるのではない。反対だ。「障害者雇用」をチャントやれと云う報道や運動に哀しくなってくる。ツラくなってくる。クルシくなってくるのだ。
「反社会復帰」とは何なのダ? ドウいうことなのダ? リクツやない。叫びや。
「労働」「働く」ってそんなにエエコトなんかいや?
テレビのニュースで例の政府機関や裁判所での障害者雇用水増し騒動の報道を見ていて、シンドくなってきたのだ。苦しくなるのだ。つらくなるのだ。哀しくなるのだ。「障害者雇用」が蔑ろにされていたことに哀しくなってるのではない。反対だ。「障害者雇用」をチャントやれと云う報道や運動に哀しくなってくる。ツラくなってくる。クルシくなってくるのだ。またもやの「障害者雇用」を推進せよとの声には、もうクルシサしか感じない。
働けない、オモタいキチガイは、どうなるのか。オモタいしんどい精神病患者は、またもや置いてけぼりを喰らわされるのか。そもそも、「働ける」ような病者障害者、何かデキル病者障害者、何かの才能がアル病者障害者が、そんなに良いのか。何にも出来ない、クスリもオモタい、シンドい、働けない病者はどうなるのか。
だからこそ、キーサン革命は、キーサン革命の鬼は叫び続けてきた(「キーサン」とは、やくざが「ヤーサン」なら、わしらキチガイは「キーサン」やと云う、「生命の底で居直る」誇りと意識をもった精神病患者会に集う者たちの自称である)。
今回も、叫び続けるしかない。「働かない権利」だと、「反社会復帰」だと。「働く権利」と「働かない自由」ではない。「働く権利」追求ならば「働かないのも権利」だと、そうキチガイは叫ばなければならない。だって、オモタい働けない病者は、働けるカルい、クスリも軽い「健病者」に差別され、いいようにヤラレてしまうからである。だって、大概のいままでの社会復帰論者、福祉制度政策提言路線の発達保障路線の専門職や家族らは、大概、「働く権利」と、せいぜい「働かない自由」と言うてきたんですよ。そして、軽めの健病者たちが、コンなに気持ちよく楽しく社会貢献しております、働いておりますよと、宣伝に努めてきたんだから。それが、今度の「水増し事件」で、ソンなウソがふきとんじゃったんだから。
でも、たからこそ、そういう制度政策提言社会復帰就労活動家たちは、その嘘をホントにするべく、障害者を雇用しくされと、迫っていくわけです。アベチンですら「四千人国家機関で雇用してみせる」なんて言い始めたんだから尚更、活動家諸氏は、今度こそ、障害者を働かせて見せると、働いて見せると息巻いているわけです。
これではタマラナイ。オモタイ、シンドイ、ツライキチガイは、働くのはもう堪忍してほしいんですよ。シンドイんですよ。「働かない権利」を叫ばざるを得ないですよ。チガいますかいな。
「働いて社会復帰する見込みのない患者は退院できない」
精神病者は、退院したいときに、診察室でこう言われたんですよ。前進友の会の古い面々は、精神医からも家族からも、「まずは、社会復帰して働く見込みがないと退院はできません。退院は許可できませんよ」と。精神医が、主治医が、診察室でこう言うんや。「アンタには働いてもらう、アンタにはワシはゼッタイに年金の診断書は書かん」と。ほんまに、そう言われたんやから。だから、喰うために働いたんですよ。精神病で年金や生保が取れるなんて、夢にも想わなかったんだから……。
だから、みんなの部屋のみんなの職歴聞いたら、びっくりするぜ。そんなに甘くはない。それは、キーサンが一番よく知っている。「前進友の会」の「みんなの部屋」の猛者たちは精神病院と釜ヶ崎を行ったり来たりしながら生き延びてきた。釜ヶ崎と精神病院の間で、生き延びたんだから。そんなに甘くはないんだよ。精神病で生保や年金取れるなんて、誰も想ってもみなかったから。生きていくには、働かなきゃならんかったんだから。それで堪えられずに死んでいくなかまもいたんだ。再入院を繰り返すなかまも居たんだ。
だから、おれ達は、生命の底から、腹の底のソコから「反社会復帰』と叫んだの。「働かない権利』と叫んだのや。
障害者雇用促進音頭に踊らされ、障害者の中にヒエラルキーが生じさせられる
ところが、今の世の中では「広汎性高機能性発達障害」が流行なもんで、社会復帰も労働も、「高機能性社会復帰」「高機能性障害者雇用」が幅を利かせてるんですかいな。『肉体労働』には眼もむけずに、国家公務員試験受けたり、博士取って大学の研究者になったり、あまつさえ精神医、精神医療従事者になったり、福祉施設の職員になったり。あるいは、この際アベチンの四千人の大盤振る舞いに、シッカリ乗って、国家公務員や地方公務員に入り込むんですかいの……。「広汎性高機能性発達障害」者の諸君は「広汎性高機能性社会復帰」を目指しますのんかいな。大概にしとけや、ほんま……。
ドウしてこうもオモタい精神病者を見下せるのか、置いていけるのか。30万人を病院の厚い鉄の扉の向こうに置き去りにして、国家機関に就職できる四千人の枠内にすべり込みですかいの。今度厚生省に抗議に行ったら、出てきて対応するのは「当事者スタッフ」的な今次の「障害者雇用水増し事件」を受けて大号令の下に「障害者雇用推進」されたお役人様が登場ですかいの。
だいたい、クスリゼロになって、「先生」と呼ばれる五職(研究職・教職・創造職・福祉職・医療職)になれるヤツなんて、ほんの一部のエリート「健病者」に決まってる。それか、はなっか、健常者ナンダヨ。「発達障害」や「健病者」ですらナインだから、そりゃ、働けるダロウよ。バカバカしいったらありゃしない。
この四千人規模の政府機就職枠を巡って、採用試験がスタートしたらドンな博士者、障害学者、ハツタツショウガイ者で溢れかえるか、見ものですな。実のところ、ほんの一握りの「障害者エリート」でっしゃろな。そして、三〇万を超える入院精神病患者や、働くこともできず、クスリも重く身体も重く、つらいシンドイ、ヒィヒィ言いながら日々の暮らしを送っている圧倒的な「病者大衆」「患者庶民」の上に「エリート雇用障害労働者官僚猿』として、君臨することになるのです。そのもう一方のふり幅のトコロに作業所「当事者スタッフ」なる在り様を宣伝しつつ。こういう構造は、延々と続くのですよ。そして、ヤッパリ今まで言ってきたように、オモタいシンドいツラい精神病患者と閉鎖の入院患者は、またもや置き去りにされるのです。障害者雇用促進音頭の踊り手たちによって。
なぜ「働かない権利」なのか-地を這う病者のアルバイト・仕事歴から
ここで、〝えばっち〟こと江端一起が、ジッサイにやってきた仕事、労働、、特に発狂後にした、就労や労働と称するものから、「働かない権利」「反社会復帰」を、叫けんでみたい。ほんまタイヘンやったんやから。反社会復帰ナンデスよ。リクツじゃないんですよ。
社会に対して、精神病患者が復帰したいような社会なのかどうなのかを、まずは突きつけるのです。それが先です。それが先じゃないのか。
それでは、おれのアルバイトや仕事の、羅列を見てください。発狂前も、発狂の原因となった職場も、隠れてクスリを飲みながら働いていた職場も、数えてみて全部で一四カ所ありました。世間様は、そんなに、甘かないですよ、まったく。とにかく、シンドかった。発狂前も発狂途上も、発狂後も、とにかくとにかくシンドカッタ。このシンドさをどう表現すればよいのか。そりゃあ「健常者」や「市民」の皆さんだって、働くのはシンドイことなんやと、働くいうのんは楽やないんや、特に今の世の中は、と、言われるのは、重々承知です。だからこそ、キーサンからの、コレが、今の世の中の労働、労働運動いうモンへの「お礼参り」ですよ。だからこその「働かない権利」と云う「生命の底で居直る」生き方のバラ撒きなワケです。こんなシゴトしてきたからこその「反社会復帰」「働かない権利」を叫ぶんですよ。隠れてクスリを飲むのんは、シンドカツタ。
隠れてクスリ飲むんも、ツライんですよ。
①自衛隊で二等陸士
高校卒業後、まずは自衛隊がかわきりだった。そして、同時に夜間大学入学だ。今も昔も、地方の農村出身のビンボーな若者が、大学に行こうと思ったら、まずは、軍隊に入るところから出発だ。バッグ二つと三万円持って営門をくぐったのは、卒業式から二週間とは経っていなかった。四月一日付け入隊のはずなのだが、三月半ばには駐屯地にいてたはず。ドウなっていたんだろう。とにかく、物品受領と、各種心理テスト漬け、それに、詳細な身体検査を一週間以上かけてやったと、想う。そのあとの四月一日の入隊式から、お仕事歴の始まりだ。
軍隊の新兵・二等兵と云うヤツダ。MOS(兵隊としての特技)は、施設手、ツマリ工兵と云うことだ。銃剣道で、絞られたぜ。先任助教がこの道が得意だったから、タイヘンだったんだ。もっと言うと、旧軍の士官学校出や幼年学校出が、まだまだ幹部にたくさんいた時代だ、荒っぽかったよ。行軍と戦闘訓練が一番キツかったね。しかも、同時に夜間大学入学だ。昼は鉄砲もって這いずり回り、夜はペンに持ち替えてノートをとっていたわけだ。今想えば、えばっちのアタマに、相当なダメージを与えたと想う。後々の発狂の要因の一つだと想う、、とにかく高校を奨学金で出たもんで、まさか其の返済が、夜間大学入学しても、高卒と同時に始まるとは想ってなかった、甘かった。だから、軍隊しか、方法が無かった、、奨学金返しながら夜間大学の学費払って、しかも、三度のご飯が食べられて、家賃掛からないところで寝られるのは、ココしか想いつかなかった、、、シカタなかったとは想うけれどヨクナカッタと想う。恥ずかしいハナシだ、、、軍隊に行ってたナンて、、
とにもかくにも、ハイポートとかいうフル装備で、自動小銃もって走り続けると云う訓練だか、班長助教達のイジメだか分かんないようなのがあって、その時は、気を失ってしまい気が付いたら班のベットで寝かされていた。とにかく、ぼろぼろだった、、ムクわけはなかったんだから、、軍隊奉公なんて、、入室も良くした、、病院に入院のことを、医務室に入室と言うんです、、医務室と言っても三階建てのビルみたいなカンジだった、、
六四式自動小銃が、四キロを超えているんだ、重かった。確か、四キロ三〇〇グラムアッタ。しかも、自動小銃と云うのは、本当に不恰好で、扱いにくいシロモノなんだ。腰回りに弾帯をして銃剣を吊り、そこにガスマスクや、弾倉や、緊急医療キット、一リットル入りの水筒、携帯用円匙を身に着け、靴はあのゴツイ半長靴で、走るのである。ヘルメットは、ライナーだったから、まだマシだったが、戦闘訓練では、ライナーの上から鉄帽をつける。それがまた、とてつもなく重いんだ。おれ達は鉄帽のことを「テッパチ」と呼んでいたものだ。
そうそう、あんな重いものを、何時も被っているわけじゃあないんですよ。鉄帽は、大抵は背嚢に括りつけられているものなのです。戦闘状況になったら何時も被っている強化プラスチックみたいなものでできている「ライナー」と呼ばれるヘルメットを被っている上から、テッパチ鉄帽を被るのです。テッパチは、とても重くて首が疲れるシロモノなんですよ。
ボクがいた間に、一人自殺して、一人事故死した。自殺はひた隠しだった。が、事故死の方は、二階級特進と云うことになり、大々的に駐屯地で葬儀が催された。オレは、儀仗隊に選ばれて、棺が安置されている部屋の前で、戦闘服と儀礼用の第一種制服との中間のような恰好で、立っていた。訓練から離れられて、少し楽ダッタ。弔銃は、三発ダッタ。虚空に向けて、空砲を撃ったのダッタ。虚しい響きだった。でも、ボクは助かったのですよ。だって、儀仗隊に加わっている間は、中隊の営内班から少しは離れられて、楽になるんですから。そう、それと警衛勤務の時も、これわかって貰えますかね。中隊の営内班から離れていられる気楽さ、と云うのを。
ただ、警衛勤務自体はタイヘンだった。二四時間連続勤務で、あの駐屯地の正門入ってすぐ左の警衛所に、詰めているわけですから、けっこうシンドイかな。仮眠も半長靴はいたままで、戦闘服のままで、仮眠するんです。
夜間の歩哨と云うか、駐屯地の外周を、二人一組で、自動小銃持って銃剣吊って、警戒しながら一周して来ると云う任務があるのですが、ケッコウ大変でした。「上番します」、と言って、二人で警戒に出発でした。一直とバッ直が、イチバン仮眠取り易くて良かったけれど、いつも、二直か三直か、だったなぁ。それか、バッ直の前。ツカレたなぁ。上番、下番、待機、休憩、を繰り返しつつ、24時間連続勤務するのである。ツカレた。そうそう警衛勤務のほかに、各中隊で、不寝番と云うのも別にあって、その時は、昼間、課業は普通にアルので、三直ぐらいが当たちゃうと、たいへんだっ、その一日が。ただ、不寝番は、正規の戦闘服で装備してと云うわけではなく、確か半長靴ではなくてズックで、弾帯もしなくて良かったハズで、銃剣道用の木銃をもって、隊舎内を見回ったのでした。だから、その点では警衛勤務よりはヨカッタかな。
僕がいてた時の自衛隊は、自衛隊独自の用語があり、旧軍から引き続いている用語があり、なおかつ米軍さんの用語もあった。そして、非公式な兵隊用語まであったのだから、なかなか慣れるまで大変だった。例えば旧軍で言う「酒保」と云う言葉があり、公式には自衛隊用語の「購買」と言わなければならなかったのだが、一般には、なんと米軍さん風の「PXピーエックス」と云うのが使われていた。ところが、我々兵隊の中では、そのPXを「ピーペケ」と呼んでいたのである。営内班では、もっぱら「ピーペケ」が使われていた。今はどうだろう。
例えば、「民間」と云う言葉も使われていた。軍隊以外の社会のことなんだが、これはひょっとしたら旧軍から引き継がれたものかもしれない。民間で灰皿のことを隊内ではエンカンと呼ばれていた。どんな漢字を書くのか忘れた。「煙缶」だったと、想うのだが、記憶が定かではない。でも、このエンカンは真っ先に覚えた。いつの世もペーペーがナニカ用事で呼ばれたら持っていかなければならないのは灰皿と決まっている。つまりエンカンだ。
こんなことは常識になっているが、階級呼称が独特の自衛隊用語であり、それは旧軍で言うとナニナニと言わなければ、かえって理解できないものだった。少尉のことを三尉と呼び、大尉のことは一尉と呼んでいた。そして、二等兵は二士なのであった。ところが、中隊を実質切り盛りする中隊付き准尉は、なんと旧軍でも自衛隊でも階級呼称としても職名としても、准尉なのだった。一尉の中隊長や二尉や三尉の副中隊長や小隊長よりも、中隊付き准尉が、もっともオソロシイのであった。この雰囲気分かってもらえるだろうか。たとえば、「鬼軍曹を束ねている親分」とでも、言うべきか。中隊事務室の一番奥の窓際の一番でかいデスクにドーンと鎮座ましましておられるのであった。中隊長室や幹部の部屋なんかよりも、中隊付き准尉のデスクの前が、我々兵隊にとっては最悪の場所なのであった。そこに呼ばれたことが一度だけあって本当に冷汗が出た。
営内班にいると中隊事務室で車両係陸曹か訓練係陸曹の助手をしていた士長が「江端二士、中隊付き准尉がお呼びである」と言われたのである。営内班に二人か三人いた士長(上等兵)達が顔を見合わせている。「江端二士、何かやったのか?」と言われ、士長連中ですら不安がっている様子なのであった。僕は半分泣きそうな顔で中隊事務室に向かった。事務室の前で大声で「江端二士、入ります」と叫んで待った。「入れ」と云う声がしたので中隊事務室に入り、事務室にいる陸曹(下士官)連中や准尉に顔を合わせないようにして、虚空に向けて「江端二士、中隊付き准尉がお呼びと云うことで、参りました」と申告した。
②とアル本山の出版部の編集助手
坊主たちの金のハナシを聴きながら、毎日ひたすらテープを起こししてた。境内の中に駐車場をこしらえたとか、境内に作った幼稚園が儲からんとか、言いながら、坊主たちの派閥争いが凄かった。
面白そうな取材は坊主達がやって、テープの荒起こしは、アルバイトのボクがするのだから、毎日毎日、オープンリールの大きなテープレコーダーと格闘していた。やれども、やれども、いっかなテープが減らなかった。あのオープンリールのレバーは堅かった。だもんで、左肩がいつも、こっていた。
例のお北さん騒動の裁判の真っ最中だったから、廊下で誰かと立ち話するだけで、面白い話が飛び交っていた。大体、裁判の進捗状況が、全館放送で流れるのだから、ビックリした。
職場内のイヂメが一番すごかったのが、この職場である。仕事の手の遅い女性事務員を坊主たちがイジメ抜いていた。本山の前の噴水で、ホームレスのオッチャンが凍死したときの、ここの坊主どもの言い草が、余りにも酷く、差別的で、本当に反吐が出そうだった。そこまで、ホームレスのオッチャンらのことを、言うか、ホンマに。坊主よ、ナニ様のツモリや。エグいハナシばかりだった。
自分のお寺の方で葬式や法事ができたら、サッサと休んでしまうので、それが、ナンと云う休暇なのか知らないが、基本、お寺の住職か、その跡取り息子が、仕事として本山の事務仕事をしているわけだから、ジブンのお寺の方で法事があったら、すぐ休んで、帰っちゃうわけなんだ。どちらかと云うと、自分のお寺でのそういうコトの方が、優先と云うわけだったから、雑誌の締め切りに合わすために、むちゃくちゃな記事を作っていた部分もあったのでは、、、、、と言って過言ではない。
③室町の呉服問屋の丁稚
このころは、ホントに「丁稚」と云う言葉がまだあって、内々には使われていたものだ。扱いも、ソノトウリであった。一番下っ端の丁稚の仕事は、店の前の掃除と、神棚のある部屋の掃除と、庭の掃除と、食堂の掃除と、商品の配達だった。
配達が実に危なかった。新町通りや室町通りといった、細い通りを配達の車とトラックと、片手運転の自転車が、行き来していた。トラックに引っ掛けられて、自転車ごとひっくり返る、と云う事故を何度したかな。二度か三度かはしたと想う。左手で、風呂敷に包んだ反物を荷台に載っけて、右手でハンドルを持って、浮き伝票持って、新町、室町、四条から五条まで、あの辺を走り回っていた。ほとんどの店の丁稚がそうだった。自転車の片手運転禁止ナンテ、そんなことできやしない。地下室にロッカーがあって、そこで、着替えて、毎晩夜間大学に走っていった。無理がたたったのか、この時も、肺炎で何週間か入院したことがアッタなぁー。
④消火器の詰め替え
手が荒れてタイヘン。若干詐欺的なとこがあって、それについていけなかったら、スパッと馘を言い渡された。どういうことかと云うと、消火器の蓋を、しのミタイなモンで廻して、蓋とって、外液と内液、混ぜてみてみせるのだが、まだまだ十分泡立つ消火器を、泡立ってないとか言い募って、ナンダカンダ言って詰め替えてしまって、お金を請求する、と云うことだ。詐欺的押し売り、とでも言うべきか。そんなこと、えばっちは、できやしない。だって、実際十分泡立っていて、まだまだ、使えそうなんだから。バイクに、伝票と、内液と外液の粉と、蓋を回す「しの」持って、京都中走り回ったなぁー。
で、アンマリ稼げないで帰ってくると、店の方で、こいつはできないヤツダなとなったら、「もう来なくて良い」と言われるのである。しかし、今や、こういう商売の在り方が普通になってしまい、コレが詐欺的、い云うのが、分からなくなりかかっている今の時代が怖いと想う。おれが甘いのかな。
⑤京都簡易保険事務センター(ココで発狂した)
政府機関が障害者雇用水増ししたっていうんで、運動的に、国家公務員にさせろと云うウンドー展開なら、覚悟を決めることですな。
入った当初は、京都地方簡易保険局と呼ばれていた。いくつかやったシゴトの中で、唯一の公務員事務職だったが、それが結局、ここで発狂した。良くなかった。ここの労組の共産党ニッキョウさんと社会党ミンドウさんと当局の労務管理末端管理者とによって、三者共同の異質分子排除と云うわけで、結局、発狂させられた、と言っても過言ではない。だから、職場環境や社会環境のことを、強く言い続けている。だから、患者の方に発狂の原因を押し付けようとする、障害者の特性の方に虐めや労務管理のセキニンを押し付けようとする、苛められている方に原因を押し付けようとする、「発達特性論者」たちとは敵対的になるのは、当たり前なのである。もう少し、環境要因や、社会要因や、会社悪や社会悪など、『働かせられザマ』などを、シッカリ見た方が良い。
ところが、実際は、精神医や医療職・福祉職やライターとかいう連中のアマちゃんさ加減が、余りに酷く凄く、本当に、仕事場で、労働者、労務者がどう扱われているのか、ピンと来てはいない、と云うか、出来ないノダと、想う。
半年間の停職と、一年弱の入院とを含む、三年間にわたるグチヤグチャを経て、復職し、人事院の公平審までをも闘ったものの、結局は、末端管理者と近畿地方郵政局からの労担達の現認体制で、おれの席がいつも十人ほどに囲まれていると云う職場だった。ソコに居続けられるはずもない。
話せばキリがないが、一緒の係にいてた人が、簡保の庁舎屋上から飛び降りた時の、あの時のことは忘れられない。その時の同じ係内の人たちや、担当の支部執行委員の言いぐさには、本当に腹が立った。ちなみにその執行委員はニッキョウさんだった。そうだ、実のことを言うと、面と向かって「キチガイ」と罵倒されたのは、職場でのコトであった。誰がやったと思いますか、みなさん。実は当局の末端管理者やミンドウさんではないんですよ。今でも忘れられない、ニッキョウさん党員の支部婦人部長さんが、廊下ですれ違いざまに、誰にも聞こえないような微妙な声高で、罵っていったのでした。なかなかのキョーレツな一撃だった。アア云うのは、本当に酷いね。そうそう、末端管理者の一人なぞは、ポケットからハンカチを取り出して、ボクの眼の前で、ヒラヒラと振って嫌がらせを続けていた。それを十人ほどの近畿郵政局の労担達が囲んででいる囲みの一環としてやるんだから、ナント言うか、凄い職場ダッタ。
それでも、とにもかくにもあの停職処分から十五年間は、青年部が三月九日近くになると、ビラまきをしてくれていたようです。ありがたいことです。そして、この時のなかまたちが、今でも、やすらぎの里を支える会の会費を、毎月払い込んでくれているのです。ありがたいことです。
あの処分から三十年以上たちました。以下に記録として、保存しておきます。
「3・9 不当処分を忘れない!!
今からもう15年も前になってしまいますが、一人の青年部員が当局管理者の差別的な労務管理のもと、不当な処分をうけました。
威圧的な現任体制のもと、特定個人をねらった差別的監視が一日中行われ、あたかも処分を出したいがために挑発をしているかのような行為が管理者によって繰り返されました。
それに対して怒りをあらわした一青年部員の言動に対して出された六ヶ月の「停職処分」、それが『3・9不当処分』です。
この『3・9不当処分』は15年前に起こったものですが、それは過去のものとなっているのでしょうか。
この、人権を無視した処分の背景には、当局に屈服しない職員は職場から排除する、という当局の差別的労務管理体質にあります。
職員の声に耳を傾けることなく、管理者の主観的な判断だけで上意下達のもと、がんじがらめに私たちを管理してきています。
『お客様第一』を枕詞に、その職場で働く私たちのことは二の次にして、いったい何が本当のサービスを提供できるのでしょうか?
安心して働き続けられる職場があって初めてお客様にも本当のサービスを提供できるのではないでしょうか。
一体、事務机の上に同じ色のボールペンが2本置いてあることが何の支障になるというのでしょうか?
一日の始まりに嫌な思いをしてまで全体朝礼を続ける必要性はどこにあるのでしょうか?
ジーンズの色が一体どうしたというのでしょうか?
髪の毛の色は黒色でなくてはならないという差別的認識をどうにかしなくてはいけないのではないでしょうか。
そして何よりも、世間をだまし、私たち職員をもだまし、信頼を失墜させたあの事件のことはどうなるのでしょうか?
私たち職員に対して一言も説明がないままです。
そう、今も当局の差別的労務管理体制は何ら変わらず続いているのです。
私たちは、当局がこのような差別的労務管理体質を持っていることを忘れずに、また、こうした差別的労務管理を改めさせるために、断固団結のもと闘い続けなければなりません。 2002.3.8春闘連続朝ビラ
全逓京簡保支部青年部常任委員会
⑥とあるチェーン店パン屋の下働き
職人さんたちに怒鳴られないように、シャカシャカと道具を洗っていかなければならなかった。手元に洗い上がりのバットやボウルなどがないと、職人さんたちは、すぐ機嫌がワルクなって、怒鳴られた。でも、焼損ないのパンを持って帰れたのは助かった、何か月やったのかな。あの白色のゴムの長靴をはいて、洗い場の前で、ひたすら、洗い続けた。洗っても洗っても、洗い物が減らないんですよ。参ったなぁー。でも、あの一斤丸ごと持って帰れる焼損ないのパンが、今まで食べたパンの中で、イチバン美味いパンだった、今から想えば……。それで、何か月か生きられたんですから……。
そろそろクスリを飲み始めていたころのはずなのだが、余り記憶がない。なんでだろう。でもまぁ、さぁ、いよいよ隠れてクスリを飲みながらのおシゴト開始である。
⑦とあるお寺の寺男
昼食付一日行って三千円、でも、和尚さんも坊守さんも、おんなじテーブルで、おんなじものを食べさせてくれた。庭掃除、枝打ち、お寺のイベントの手伝い、穴掘り、溝掃除、なんでもやった。病院の外勤作業の一環だった。
通リハとか外勤作業とか、働かせるための、福祉的医療的モロモロをこしらえるのはいいけれど、ジッサイそういうので働いてみると、これは、体のいい、障害者を低賃金労働させて、ヒトの嫌がることをさせようと云うコトなんですがね。実は、そう、寺男と云うのは「世間様が避けたがる」といったものに深く拘わるような側面があるのです。だから、和尚さんと寺男で、セットと云う、シーンが、有るような無いような……。意味わかりますかね?
まぁ、でも、ここの和尚さんたちとしては、お寺と云う場で、精神病患者さんの社会復帰に役立つのなら……、と云う気持ちが強かったと想う。そこは、想いに邪さが無いだけ、マシダツタとは想うが。だからたまに、本堂で座禅を組ませてくれたこともあった。実務としては、なかなかに、寺男と云うのはタイヘンなナンデモ屋で。タイヘンでしたよ。穴掘り系がキツかったかな。それと、竹林の管理がね。お寺のイベントと云うか、その準備作業と云うのは、本当にイロイロあるので、ケッコウ忙しかった。しかも、和尚さんは単発で仕事を言いつけるものだから、今やっていることがお寺のイベント準備なのか、土建的なものなのか、庭師的なものなのか、よくわからないままやっていたので、後から考えれば、ずいぶんとチグハグなシゴトぶりだっかもしれないなぁー。
入院中の外勤作業だったんですから、クスリを隠れて飲む必要はなかったはずなのに、庭での作業中に飲んでいましたね。
⑧コンポステレオ組立工場
ラインの流れが速すぎて、ついて行くのが、やっとだった、このライン工場は、残業もあって、とにかくタイヘンだった。作業にやっと慣れたと想ったら、ラインの速度を上げるンだよね。
ラインの真ん中に天井から電光掲示板が下がってて、完成台数が、刻々と出るもんで、気が気ではなかった。目標台数が上の段に出ていて、その下に完成台数が出る。アレは、オソロシイもんだね。昼休みに見上げて、あらあら半分近くに達していなかったら、こりゃマズイなと、想ってしまうんだよね。やっと慣れてきて、完成台数を毎日クリアーしているとホッとするんだが、いつしか目標台数の方が増やされていて、ラインの速度が上がっている、と云うわけなんだ。しかも、朝八時に、ラインマネージャーがスタートボタンを押したら最後、そのラインにこき使われる、と云う、まさにラインの一工程の一部品のようなシゴトでした。一度は、経験すべきシゴトですよ。ラインの組立工場と云うのは。
残業の時は、残業時の目標台数が出るので、必死にシゴトしたよ、ほんと。確か、残業の時は、菓子パンが一個ずつ配給されたな。そして、残業の時の目標台数が、新たに天井に光り輝くのダッタ。目標台数に到達しないと残業は終わらない、と云うわけだった。
何度か、下痢気味の時があって、その時は、おうじょうした。機械に合わせて仕事するとは、どういうことか、オモイシッタ。ラインの製造工場には、一度行ってみるものだと想う。
クスリは休憩時間中の便所で、飲んでいた。「便所グスリ」である。確かこんなキーサン用語無かったかな……?隠れて便所で精神のクスリ飲むことの隠語ミタイに「便所グスリ」なんて言ってなかったっけか、忘れちゃったな……。
⑨プラスチック工場
埃と騒音と熱がタイヘンで、単純作業の繰り返しで、リサイクル産業の実際は、すさまじい労働だと、知った。
ペットボトルを細かく砕いたモノが、セメント袋のようなものに一杯詰まっているのが、山のように積み上げられている。それを一つずつ肩にかついで運んで行って、袋の口を開けて、床に開いた口から、下の階のプールのようなところに、落とし込んでいくのである。ただ、それだけを、延々と、毎日毎日、続けるのである。プールから先は、自動化されているようだった。だから、この工程も、自動化されたら、この仕事は、無くなるのは、目に見えていた。
そう云う仕事もアルと云うコトだ。本当に埃と騒音と熱は、酷かった。
クスリは、仕事の合間に、あの埃っぽい中大急ぎで飲み下していた。便所グスリもやった。
⑩森林組合の現場労務者
ホントタイヘン。夏草の一番刈、二番刈、雪おこし用の縄のボッカ、枝打ち、除伐、間伐、危ない作業だった。カンカン照りの中、ヘルメット被って、刈払機での夏草刈りと云うのは、本当に過酷だった。刈払機のエンジン熱をもって、熱いなんてものじゃナカッタ。ガソリン入れるときにしくじって、一台爆発させてシマッタ。危ないんだよね、機械止めないで、ガソリン入れちゃうから。ちょっとした小さな爆発でした。怪我しなかったのが幸いだった。
枝打ちは、あの高さまで、地下足袋装着の爪とベルトのロープで登っていく、小型チェーンソーをたすき掛けして登っていく……怖い仕事だった。刈払機と、チェーンソーの事故も、何回か見たが、壮絶だった。林業での事故は、凄まじいモノです。チェーンソーで手を切った場面を見たけれど、アレは、酷かった。血だけじゃなく肉片も飛び散って、ソコラじゅう血だらけになった。刈払機では、あの事故は、本当にもうちょっとで、腕が切断されていただろうと想う。鉈の事故もあった。鉈で斬ると、ソレは切ると云うより、ドンときてパックリと皮膚が割れて、血が噴き出すと云う感じで、それも、恐ろしい怪我に繋がっていました。
おっちゃんらの鉈の研ぎ方も凄いもので、鉈を研ぐのに、二時間も三時間もかけて、研いでいましたね。切れモノを使う人は、研ぎ方も、凄いです。教えてもらったけれど、ボクは、なかなか上手く研げなかったなぁ。
そう、それで、ここのオッサンらの喧嘩は、鉈が出た。しかも、仕事が終わったら、帰りの車の中で、一升瓶が積んであって、それラッパ飲みしながら喧嘩が始まった、スズメバチとマムシは、日常茶飯事、クマにも出会ったことがある。
奥越地帯でのこの仕事、季節労働、と云うことです。豪雪地帯ですから、ツマリ冬場は失業すると云うことなんです。大体、四月から十一月までの労働ですから。季節労働と云うのもタイヘンですよ。冬場はシゴトが無くなっちゃうんだから、本当に。
そうそう、ムカシは、親方の名前で、小林組とか大林組といった単位でシゴトをしていたのですが、ココも近代化の波に洗われたのか、「組」と云う名称ではなく「労務班」と云う名目になったようでした。親方のことは、班長と呼び、小林班とか大林班とかいう呼び名にせよとなって、スグのようだったようで、親方たちが、ブゥブゥ言うてました。結局おっちゃんらは「組」と、呼び続けていました。ボクたちも、親方だの組だのと、言うてましたタ。
クスリは、離れてシゴトしているもんで、谷間に入った時や、目立たない場所で刈払機を振っているときに、急いで飲み下していた。水筒は、いつも腰にぶら下げていたから、ヨカッタ。
⑪某建設会社のアルバイトと云う名目の実は、
立ちんぼで発掘現場
ユンボーやらブルトーザーやらが置いてあるトコで、朝まだ暗いうちから、ドラム缶に廃材を突っ込んで、ボウボウ火を焚いて暖を取って、立って待っているんですよ。すると、手配師のおっちゃんらが、近づいてきて、ぼくには、「あんちゃん、まだ若そうやし、工事現場やのうて発掘現場にまわしたろ」と言われて、発掘現場の飯場へ連れていかれた。飯場のおおっちゃんらの喧嘩が大変。それと、ツルハシの担当が大変。ヤサしい刷毛ばっか持ってたら、おっちゃんらに睨まれるから、自主的にツルハシやら剣ズコやらを取りにいかないとアカン……若いのは。おっちゃん
飯場は二階建てのプレハブで、一階が現場の作業員(労務者)、二階は先生達だった。ほんとに、上下に別れていた。考古学のセンセイやら遺物やらは二階で、下に、15、6人ほどの労務者である。労働者とは言わない、労務者でアッタ。
ここのおっちゃんらに、ドヤ生活と云うものを実地で教えてもらった。と云うか、見せてもらったと云うか。仕事終わって帰ってきたら、あの小さな窓口に向かって一列に並ぶのである。黙々と並ぶのである。あの窓口のおばちゃんは無愛想なのであった。
みんな会社に借金をこしらえていたので、窓口でも貰えるお金なんて、こずかい程度でしたよ。1500円から3000円くらいの間かな。一万円から7500円位のシゴトしていて、なんでソレだけしかもらえないかと言うと、ソコが立ちんぼのドヤ生活の恐ろしさと言うか、仕組みなんですよ、どう、説明したらよいのかな。誰か、うまいことこのドヤと云う、ほんまもんの直接的な詐欺的搾取の仕組み、簡単に、説明してくれませんかね。
とにかく雨が降って仕事が休みでも、ドヤ代は取られるのですから……。あの当時で、三畳ぐらいのドヤで、風呂に入って、夕食朝食代、飯場での弁当代なんかは、入っていたか、別料金だったか、それに、電気代やクーラー代なども別にとられていたのかな。併せて毎日三千円から四千円くらいじゃなかったやろか。そうすると、お盆やお正月、怪我や病気や雨なんかで仕事が出来なかったとしても、毎日の三千円から四千円位のドヤ代はかかるわけだから、それで、会社に借金が出来ていく、と云うコトになってしまう。おっちゃんらが、一日八千円、九千円、一万円の仕事をしてきても、窓口では二千円ぐらいしか渡してもらえない仕組みが、分かりますかね。
でも、これでも、まだマシな方みたいだったんですよ。おっちゃんらから、アソコは酷かったと云う話を聞いていたけれど、それはそれは、本当に、タコ部屋と云うか、奴隷小屋の見張りがやくざで、逃げ出そうとしたヤロウが、殺されたんじゃなかろうか、と云うハナシだったんですから。そういったトコロを脱走してきた、と云うようななオッチャンらのようでした。
そういったわけで、飯場での喧嘩は、タイヘンでした。二階の考古学センセイ達は、モチロン我関せずでしたね。この上下と云うか、二階と一階の関係と云うかも、ナカナカにオモシロイものがありました。本当に中卒のオッチャンらと、大学出のセンセイ様たちは、階級と云うか階層と云うか、文化と云うか、本当にチガッてた。ジッサイに一階と二階のチガイと云うわけだった。巨大ライン工場でも感じたことだが、世の中は、本当に労務者階層とホワイトカラー階層は別物だ、と云うコトが、実感できました。
飯場の便所で、便所グスリを決めてました。プレハブの酷い便所だった。
⑫自動販売機組立工場の派遣労働者
派遣と正規雇用の労働者と、ホワイトカラーの差が激しすぎて、本当にびっくりした。見た目でスグわかってしまうのです。なんといっても、派遣はねずみ色の作業着、マツショルのホンチャン労働者はブルーの作業着、そして、管理職は、白のカッターシャツにネクタイなのであった。自動販売機工場とエアコン組立工場で随分雰囲気がチガッタなぁー。昼休みが壮観であった。ラインが止まった巨大工場から一斉に労働者が吐き出されて、食堂に大移動を開始するのである。
なんといっても、ラインだから、便所にも行けん。あの大型の自販機をラインで組み立てるんだから、動いているラインをまたいだり、乗ったりしての作業、危険だった。アスベスト作業まであったんだ。エアードライバーの騒音は凄まじかった。
ラインのどの工程に配置されるかで、運命が毎日変わる。なんといっても派遣なので、ホンチャン労働者の休みの穴埋めに使われるから、毎日、担当する場所が変わる。だから、派遣の事務所から八時ぎりぎりにタイヘンな電話やらナンヤラの騒動の後、持ち場が決って、現場の工場の担当の工程のトコロまで、走って行った。
それと、アスベスト作業は、本チャン労働者ではなく、我々派遣の担当でした。そう、それに、必ず同じ人がずっとやらないで、二回か三回で、必ず交代していたような気がします。眼鏡とマスクは、支給されましたが、とにかく、一日シゴトすると肌が、チクチクするんです。ちょっと、これ、ヤバイかも、と想いました。アスベストだとハッキリ言われたわけではなかったですが、アレが、そうなんだと、想いましたよ。だって、眼鏡とマスクが、支給されていた唯一の工程でしたからね。えばっちも、二回か三回入りました。嫌だったです。
そうだ、エアードライバーを使う工程では、耳栓が支給されていたなぁ。一人一個、失くしたら、自前で買って来なくちゃならなかった。でも、結局は、しなかったんですよ。前の工程やら後ろの工程の人たちと叫びながらの連絡も、アリマシタからね。
ココでも、昼食時間中の便所グスリをやっていたわけです。
⑬重度心身障害者のみなさんの通所援護事業所での介護
六年やらしてもらえた、唯一のとてもよかった仕事だったが、腰と膝を悪くした。自分のクスリと病状で、介護している人への責任が持てなくなると想い、自主的に辞めた。この時は、本当に惜しまれて辞めたよ。
勤めていた時は、病気のことは一切言わなかった。ツマリ隠して、隠し続けて勤めていたわけです。クスリは、どうしたかって?モチロン、隠れて飲んでいたんんですよ、便所でね。だから、お泊まりイベントの時が、実にツラかったかな。旅行の時とか、お泊り会の時の介助は、実は、ツライものだった。とっても、愉しかったのではあるが、眠剤の飲むタイミングを間違えると、タイヘンだった。
月水か月火の二日間が基本だが、それ以外に月一度の木曜のミーティングや、土日祝日のイベントや、旅行にもよく行った。タイヘンだったが、愉しかった。あの面々での一泊二日の旅行と、初期のころの「ヤッほーフェスティバル」の準備は、愉しくも、しんどくも、素晴らしくもアッタ。あの催しは、凄かった。いい想い出ですね。一人ひとりの顔と名前と共に、たくさんの想い出がある。素晴らしい想い出がある。唯一の、唯一の良かった、やれてよかったと想えるシゴトであった。
しかも、さらに、有難い事は、まさにココでココで、感得させてもろうたことが、アルのですよ。ツマリ、「障害」が違えば、「家族」との関係、「医療」との関係、「スタッフ」との関係も、「制度的」要求の在り様も仕方も、「政策的」方向も意味づけも意味合いも、また、我々【キチガイ】と、『重度心身障害者』のみなさんとで、チガッて当たり前だ、と云うコトを実地で、感じさせてもらった。チガウべきである、とも想った。
そうだから、【キチガイ】の側の精神病院に対する想いや、家族会に対する想いと『重度心身障害者』のみなさんとが、一緒になるわけは、無いのである。チガイがあって当たり前だと想ったのである。逆に言えば、例えば、『精神障害者の家族会』の目指すものと、『重度心身障害者の家族会』が目指すものとか、一致するわけはないのである。してはならないのである。だって、障害がチガウのだから。『精神障害者』の当事者会と家族会の関係性と、『重度心身障害者』のソレとも、同じになるわけはないのである。同じであると云う側面ももちろん、アルのはあった。でも、チガウのだ、と云うこの点が、本当に、ジッサイのセーカツの中での、腑に落ちたのである。
だから、その点でも、「自立支援法」には、反対である。「障害者」とひとくくりに出来得ない、それぞれのモンダイや課題、苦しみや哄笑をかかえているのだから。
そう、だから、我々キーサン患者会の叫びが、如何に的を突いていたものだったかは、まさに、まさに、まったく別の障害で生き、笑い、喜び、泣き、苦ししんでいる皆さんとの地に足の着いたセーカツの中で、えばっちが、感得させてもらったモノだったのである。だから、まさにココだけが、えばっちの賃金を貰うと云う職歴の中で、唯一感謝している職場なのである。ただし、けっこう肉体的にはキツかった。結果的には、腰と膝は、ケッコウ古傷にナッテシマッタと想う。以前の肉体労働の古傷と共に。
そして、実は、ここに勤めている間に、三回目の入院を経験した。よくバレなかったものだと想ったが、どうも、この時に、施設長は、ピンときたようやね。後で聞きました。退職してから十年経ってから、初めて、再度交流に訪れて、最初に聞いたことは、えばっちが、精神病患者と気づいたのは何時だったのか、と云う質問でした。
「当事者スタッフ」と云う問題意識も、実に、ココで深まったと言える。ココでのゲンジツで、ホントに想った。基本「当事者スタッフ」反対です。季刊誌『福祉労動』160号に書かせていただきました。ご覧になって頂けるとありがたいです。
それと、スタッフ間の軋轢、スタッフと親御さんとの軋轢、のモンダイもありました。それが大変なコトになっちゃって。忘れられないのです。ジツは福祉の現場では大事なコトを示唆しているのですが、これは普遍性の在るモンダイと想っているのですが、なかなか描けません。どう書けばよいのか。そして、ここでのなかまの一人ひとりのみなさんとの想い出も、たくさんあるのだけれど、それは、また、別稿で書きたいと、想います。ココでは、まぁ、エバッチの労働ゲンバの簡単な怨念紹介と云うこと、ですから、ココまででご勘弁のほどを。
例によって例のごとく、ココでも、便所グスリでした。でも、同じ便所グスリしてても、気持ちは楽だった。
⑭とある作業所で茶団子の箱折り
毎日あんなことしてたら、病気悪くなるに決まっていると、想った。本当に茶団子の箱折をしているんですから。みんな、黙々と押し黙ったマンマね。そんな中で、所長、職員、作業リーダー役通所者、一般通所者と云う階層が、シッカリとありました。所長は独裁的なところがありました。だって、所長だけが四十代後半か五十代、後は、全て二十代から三十代といったところでした。嫌なものですよ……。そして、近所の診療所と、完全一体化していました。タマラナいトコロでしたよ、本当に。
ちなみに1日しかもたなかった。いくつか仕事をしたなかで最短退職記録が、福祉的就労と云うのが、笑えると言うか、ナサケナイと言うか。
こうして、ボクの高校卒業後一八歳から四一歳までの一四か所になる労働は、終わッタンデス。それで、生活保護で暮らすようになって再入院はしていません。今のところはこれまでは、五回も入院しんですが。
こうしてみると、ボクの仕事歴なんて、ほんとはたいしたことはないんです。こんな程度のモンなんです。「友の会」のなかまたちの中には、本当に想像を絶するシゴトを体験しているよ。ホントだよ。なかまの何人かは、十全会病院と釜ヶ崎を行ったり来たりしてたんだから。
発達障害者が、発達障害減薬原理主義者たちが、クスリゼロにして就職できましたなんてことを大宣伝しているけれど、今度も、政府機関や教育機関に高機能性社会復帰をさせろと息まき出すだろうが、そんなものは、一部の障害者エリートかそもそも、病者でも発達障害者でもないんじゃないか。ソレを精神病患者のあり得べき姿として見せようと云うのは、ムリがアルと、想うよ。
だから「誤診誤処方被害者であるところの健常者か健病者かハッタツ障害者達の減薬・断薬と社会復帰への取り組み」と、
ハッキリと言ったら良かったんだけれど。
惜しい事だった。すり替えられてシマッタ
苦労して、這いずるようにして、「前進友の会」の第一世代の病者達から延々と続く、病者の生き様、死に様が、死人と共に、再入院と共に、病状の悪化と共に、「生保や年金の診断書は書かへんで」、「働かないと退院させへんで」と云う、精神医どもと世間様からの嫌がらせと脅しに対して、キーサンのセーカツの底の底から、キーサンの生命の底で居直る生き様から這いずるように生み出されたモノなんですよ。
「働かない権利」と「反社会復帰」とは。
この現代ニホン社会で、その意味、わかりますかね? それを、発達障害がダイナシにしようとしているんですよそして、今次の「障害者雇用水増し事件」が我々キチガイを塗炭の苦しみに追い込むでしょうね。「生活保護」の6年連続の減額とともに、「障害年金」の級下げ取り上げとともに。
「働かない権利」を!
「反社会復帰」を!!
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