新しい身体、新しい視点。ある日突然、事故で下半身不随になりました。
※この記事は、事故後3週間が経った2018年2月に
Facebookに書いた文章を一部加筆修正し再掲載したものです。
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目が覚めると...
2018年1月22日、息が白くなる位よく冷えた週明け月曜日の昼過ぎバイクで事故に遭いました。
逆行性健忘症(一種の記憶喪失)によりその日の記憶は一切無く、ハッキリと残っている最後の記憶は 前日に私用で東京から帰ってきて家のベッドで寝たというもの。
次に目が覚めるとそこは大学病院の救急救命センター集中治療室のベッドで、そこに寝ていたのは口を通して何本ものチューブで機械に繋がれた自分でした。
いつも通り、夜に家のベッドで寝て翌朝目を覚ました。そんな感覚でしたが、その時には既に事故で意識が戻らなくなってから1週間もの時が流れていました。
何が起こったのかと状況が分からないまま病院のベッドでボンヤリしてる中、数秒間の一つの記憶を思い出しました。『分かりますか?バイク事故に遭ったんですよ』という看護師さんの声、視界を奪う程の眩しいスポットライトで照らされる自分、近付いてくるDrヘリの音。その記憶だけをふと思い出し、状況はある程度察しました。正確に言うと察したつもりになってました、その時は。
その時は冷静なつもりでまだ混乱していたのでしょう。数日かけてようやく、術後の背中の痛み、固定されて動きが制限され不便な首、全く感覚が無くどれ程念じてもピクリとも動かない自分の脚、全くトイレに行きたくならない自分、少しづつ自分の状態に気付き始め『アレ、何かおかしいな』と思い始めました。
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違和感の正体
事故から9日(意識が戻ってから2日)が経過し2月を目前に控えた1月31日。事故後すぐ駆けつけ、毎日のように見守ってくれた両親のうち医療の知識を持つ父から自分の状態について初めて説明を受け、今どうしてここに寝ているのか、どういう状態なのかを知ります。
しかし全てを一度に自分の子に伝えにくいという気持ちがどこか父にあったのかもしれません。同時に自分にも現実から目を背けたいという気持ちがまだあったのかもしれません。ほぼ一生残ると一般的に考えられる脊髄損傷の後遺症について正面から認識する事が出来ず、『頑張ればいずれまた脚は戻り歩ける。数日前のように。』その程度に考えてゴムの様に感覚の無い足をずっとさすっていました。もしかすると向き合う事を心は避けても頭はどこかで現実に気付き始めていたのかも知れません。悲しい悔しいという気持ちが特にあった訳では無いのに、その日だけ、たった一粒の涙でしたがツーっと頬を濡らしました。
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向き合う覚悟
心の整理はついてませんでしたが時とともに容態は安定してきて、命の危機は一先ず去ったと判断されたのでしょう。両親やセンター長先生を始めとする大学病院の方々のお陰で、意識が戻ってから僅か5日(事故から12日)で福岡の脊髄損傷を専門にするリハビリ病院に転院出来る事になり、体を芋虫のようにベッドに固定されヘリに乗り込みました。
着いた先の病院は流石日本有数の脊損専門病院と言うべきか、様々な原因で自分のように脊髄を損傷し身体の一部が機能しなくなって、それでも前向きにリハビリに励む人で溢れていました。
ここで一週間程過ごすうちに、これまで気付かなかった事に気が付き始めました。最初は脊髄をやったので暫く歩けない程度に思っていたのが実際には、、
❶失ったのは足だけでは無く胸下部分で、むしろ『残ったのは手とそれ以上の部分のみ』と表現した方がしっくり来るほどの状態(腹筋や体幹も同時に失われている為、手すりや背もたれが無いとフニャフニャで上体すら倒れやすい)
❷動く部分が少ない事に筋力が落ちてる事が加わり寝返りさえ自分で打てないし自力で起き上がることもまだ無理(リハで改善を目指す)
❸固定の為背中に埋め込まれた、長い2本金属の棒と8本のボルトの違和感が凄く、少し下手に動くだけでも痛みが走る
❹便意も尿意も感じない為、タイミングを図り器具を使い適宜強制的に排泄をしないといけない事(溜まるとダダ漏れの修羅場になるのでその前に抜く)
❺ベッドや車イスに長時間同じ姿勢で体が接する為、床擦れ(こう言うと軽く聞こえるが実際は皮膚の壊死)が非常に起きやすく細心の注意が必要である事
❻自律神経も大半が同時に失われる為、胸下は汗をかかず体温調節に失敗し熱が引かなかったり、寝てる状態から座るだけで起立性低血圧になり耳や視界が一時的に失われたり、最悪気が飛んでしまうというリスク(低血圧は順応可)
などなど、下手すれば足が動かない事以上に厄介な山積みの問題に直面するようになりました。
そして頑張りさえすればいずれ歩けるという以前抱いていた軽い考えにも疑問を抱き始めました。『自分の状態をもっと正確に包み隠さずに知りたい。それが気持ちを切り替え、正しい方向に希望を見いだし前へ進んでいく為に必要だ』そう思い父に再度詳しい状態の説明をお願いしました。
そして改めて分かったのは
* 【第7/8胸椎破裂骨折(背骨グチャグチャ)】
* 【脊髄損傷(↑の中枢神経損傷により下半身不随)】
* 【頚椎(首の骨)骨折】
* 【髄液漏(ザックリ言うと脳汁漏れ)】
* 【両側血胸/肺挫傷(肺が潰れた状態)】
* 【頭蓋底骨折/気脳症/脳挫傷(頭の骨骨折+脳へのダメージ)】
やはり結構な大事故だったらしいです。
幸いなのは後ろに誰も乗せてなかった事、水か凍結によるスリップ単独事故で他に誰も巻き込まなかった事。
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足ではなく心で立つ
脊髄は基本的に再生がほぼ見込めない組織と言われており、脊髄損傷のリハビリの多くは『動かなくなった部分を動くようにし再び歩く事』では無く、『残された動く部分を活用し、そこで動かない部分を少しでもカバー出来るようにする事』を目標とする事が多いようです。
もちろん人により状況は様々で、ごく僅かではありますが再び歩けるようにまで回復する人もいるという話もありますし、事実今入院してる病院にも元々の損傷具合で歩ける人〜全身動かず呼吸器が常に必要な人まで様々です。( ただ自分の場合、完全麻痺で失われた部分の機能回復は困難ですが... )
可能性は僅かであると捉え過信はしていませんが、再生医療の進歩もあります。
僕自身『再び歩きたいか』と聞かれると間違いなく答えはYesですし、正直今は不便で歯痒い思いばかりです。
しかしこれまでこの脚には人一倍色んな所連れて行ってもらいましたし、他の人が絶対観ないような景色もこれまで多く見させて貰いました。《明日後悔しない様な今日を重ねる》そう意識してこれまで毎日を過ごして来た為、全く悔しくないと言えば嘘になりますが基本的にその点で後悔はしていません。
再び自分の足でこの大地に立つ。
その希望も完全に諦め捨てた訳ではありませんし、その様に頑張ってる人や姿勢を否定する気は毛頭ありません。しかし自分はそれを第一優先の目標にするのでは無く、まずは車イスでも自律した生活を手助け無く送れるようになり社会復帰を一刻も早くする事。
これを最優先課題とし、車イスとこの身体を “忌み嫌うもの” では無く、“自分の一部として、新しい身体” として受け入れる。そのように真実を受け止め、ようやくですが気持ちを切り替え、希望を見いだす方向性を定め、事故から3週間ほど経った今一歩ずつですが不安を抱えながらも前へと歩き始めました。
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最後に
命を救って下さった救急隊の皆様や医者の先生方、看護師の方、リハビリの方々を始めとし、事故を見て助けを読んでくれたであろう方、死ぬほど心配をかけた上に5体満足で産んでくれた体をこんなにしてしまってもなお寄り添ってくれる両親、内定先やバイト先。そしてこんな自分の事でも心配して励ましてくれた数少ない心許せる友人達。多くの人に本当に感謝の気持ちで一杯です。本当に御心配とご迷惑をお掛けしました。
復帰後もこのタイヤのついた身体をハンディキャップとして捉えるのでは無く、この身体だからこそ、この視点だからこそ得られる経験がその不便さを大きく上回る様努力していくつもりです。
見た目こそ少しばかり変わることになりますが、それを『進化』と言われる様な人間になってみせますので皆さんこれからも変わらずどうぞよろしくお願いします!