『高校入試に英語スピーキングテスト?』を読んで
前回投稿「入試へのスピーキングテスト導入についての私見」において、入試にスピーキングテストを導入することに関する私の考えを述べさせていただきました。東京都公立高校入試のスピーキングテスト「ESAT-J」について様々な批判がなされていますが、私自身がこの問題についてどのようなスタンスを取ればいいのか悩んでいたので、批判のノイズを避けるためにこの件からは意識的に距離を取ってきました。
前回の投稿で文章化してみて、ESAT-Jを含むスピーキングテストの入試導入に関する議論について、私は大きく分けて以下の2つを強く意識していることを自覚しました。
「ESAT-Jへの批判=スピーキング不要論」としないで
入試へのスピーキング導入を批判するのなら、入試の波及効果をどう考えるかをセットで論じて
本書は上の2点を十分に踏まえたものでした。それゆえ、本件から距離を取ってきた私でも、一読して有意義だったと言うことができます。以下、この2点を中心に本書について思うところをまとめます。
あくまでESAT-Jに対する批判
冒頭の「『ESAT-Jへの批判=スピーキング不要論』としないで」という私の思いからすると、本書ではその点に関してかなり明確に線引きをしている印象を持ちました。本書で言及されているESAT-Jの問題点をここで挙げ始めたらキリが無いので差し控えますが、どの問題点についてもESAT-Jに固有の問題として取り上げ、批判の対象をその事業者や都教委に限定して論じています。
だからこそ、本書のタイトルはややミスリーディングで残念と感じます。「高校入試に英語スピーキングテスト?」という本書タイトルでは、まるでスピーキングテストの導入自体が問題であるように映ります。このことは、この件を巡る報道などにも同じことが言えるかもしれません。いずれにせよ、本文ではESAT-Jに限定した建設的な批判となっているにもかかわらず、タイトルでスピーキングテスト全般に問題があるかのような表現になっているのは残念なところです。
代替の模索も含めて建設的な批判となっている
個人的には、最も建設的と感じたのは第3章「入試への英語スピーキングテスト導入を検討する際の基本事項」でした。章のタイトルの通り、入試にスピーキングテストを導入する際に問題となる部分を的確に指摘し、スピーキング不要論ではなく、あくまで現状の「入試」というものと相容れないところが多いという論調を明確にしています。
筆者によれば、今回のESAT-Jのような大規模なスピーキングテストにおいては、時間をずらして実施規模を小さくすることが必要であり、その際の問題漏洩のリスクを避けるためにはIRT(Item Response Theory / 項目応答理論)を用いたテストが望ましく、その上で「IRTを利用した入試には、長年にわたり培われてきた『日本的試験文化』と相入れない」特徴があるとしています(p. 37)。また、
と述べ、日本の入試制度の中にスピーキングテストを導入することは、技術的にまだ時期尚早であったと指摘しています。裏を返せば技術の進歩を待てば大規模なスピーキングテストを入試に導入することも可能だということであり、筆者もその点に関して、都教委は適切なタイミングの見極めに失敗したと批判しています。
このように、安易にスピーキング不要論やスピーキングテスト導入は不可能というような結論に飛びつかずに、実現への筋道を探りながら本件の批判を展開しており、第3章はたいへん建設的な内容と感じました。
波及効果についても真っ向から論じているが・・・
前回の投稿で書いたように、私自身は入試へのスピーキング導入についてもう少しニュートラルでありたいと思っていますが、自分の中の推進派の意見としては、やはり入試のwashback effectは無視できないところです。ですから、スピーキングテスト導入を批判するのであれば、導入によって期待できる波及効果のメリット・デメリットもセットで論じるべきと考えていました。
本書において、ESAT-Jの導入の波及効果に関しては、一貫して「このテスト内容では望ましい波及効果は得られない」というスタンスのようです。タブレットに向かっての問答では「入試で点を取るため」の訓練を助長するだけであり、「ESAT-Jが導入されることにより、コミュニケーションの意味がいっそう矮小化され、教室での学びがやせ細ることが危惧されます」(第1章,p. 15)との批判にはもちろん頷けるところも多いと思います。ただ、「学びがやせ細る」との批判はスピーキングに限らず他技能を測る入試問題にも当てはまり得ることであり、殊更にスピーキングテスト導入に限ってその批判を持ち出すのはアンフェアな感も個人的には抱いてしまいます。
入試の波及効果には期待できない?
入試の波及効果について、第3章では個人的に興味深い記述が見られました。
このように筆者は述べていますが、果たして本当にそうなのでしょうか。現場の教員としては入試で何が問われるかというのは、教室で行う活動や指導事項に大きく影響すると感じますし、生徒個々人が力を入れる学習事項も大きく左右されるはずです。「入試改変の波及効果は、多くの要因が絡み合う複雑な現象」(p. 35)であることは疑いようもありませんが、上の引用のようにリスニングを導入してもリスニング力は向上していないというのであれば、それを示すデータなどは示してもらいたかったところです。(もっとも、存在しないことの証明(いわゆる「悪魔の証明」)は難しいと承知していますが…。)
改善への大きな流れの中の一歩とは捉えられないのか
上記の波及効果の議論において、筆者はこのようにも述べています。
プールになぞらえたアナロジーは秀逸ですが、同じアナロジーを用いるなら、どれだけ教師が泳力を磨いても、どれだけ水泳の指導法に研鑽を積んでも、そしてどれだけ立派なプールを学校に設けることができたとしても、入試で実際に生徒を泳がせることをせず、泳法に関するペーパーテストを課すだけであれば、生徒が自ら水着に着替えてプールで泳ぐことは期待できないのではないでしょうか。生徒の目には、座学の泳法講義で十分、ということになってしまわないでしょうか。
そもそも入試改革で4技能試験を導入しようという議論は、こうした問題意識から始まったものであるはずです。様々な問題をはらみつつも、まずは生徒を実際に「泳がせる」テストを導入したことは、大きな一歩とは言えないでしょうか。
もちろん、大きな一歩のために中学生を犠牲にしてはならないという指摘はもっとものことです。ESAT-Jの不受験者への措置や仮結果の算出に関しては、確かに「あってはならない犠牲」という問題を抱えていると思います。こうした運用上の問題に関しては厳しい追及があって然るべきであり、その点において本書が果たす役割は大きいと考えます。
そうした「あってはならない犠牲」をなくすための批判と、スピーキングテストをより良いものに改善していくための批判は、分けて考えるべきでしょう。「あってはならない犠牲」をなくすことと導入自体を否定することはイコールではないはずです。
今後振り返ってみた時に、本書が批判する「失策」が、長い目で見れば改善への一歩であったと言えるようになっていることを願います。