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ショートショート『温泉バスボム』

 病に伏せる父から生前最後、これは俺からの形見だと、袋に入った幾つかのバスボムを渡された。
 なぜに形見にバスボムを?
 それを尋ねる暇もなく父は亡くなってしまった。仕事一筋で無口な父だったけれど、死に際くらい、もう少し話していたかった。

「お父さんね、いつか渡そうとずっと大切にとってあったみたいなのよ」
「けどお母さん、形見に消耗品ってどうなの?」
「そんなのは気にしないでどんどん使ってあげて。きっとお父さんも、そのために作ってたと思うから」
「え、このバスボムお父さんの手作りなの?」
 一人鉄工所で働いていた父が、まさかバスボムまで作ることが出来ようとは。だが確かにどれもバスボムらしからぬ薄茶色をしていて、父らしい色といえば父らしい。うっすらと見える温泉マークも同じように。
 そして驚く私の顔を見て、母はいいからとりあえず一個使ってみればと私を風呂場へと追いやった。

 湯船に浸かると私は、そのバスボムもそっとお湯に落とした。
 すると途端にシュワシュワと、バスボムは盛んな泡を吐き出しながらゆらゆらと湯の中を漂う。
 さらには湯を飛び出した泡は白い湯煙へと変わり、それはあっという間に私の視界を満たし、何も見えなくなった私はその煙の勢いに少し心配になるほどだった。
 そしてようやく視界が開け始めた時、私は目を疑った。
 気づけば私は、見覚えのない温泉に浸かっていたのだった。
 おぼろげな湯煙の奥に広がっているのは、青空の下、雄大に連なる山々と、それを満たす鮮やかな草木らの、広大な景色だった。
これは幻か、それとも瞬間移動でもしたのだろうか、だが目の前の光景にそんな些末はあっという間に飲み込まれ、私はゆっくりと息を吐くと後はただ、温かな湯の中で、呆然と景色に見とれるばかりだった。
そうして気づくとまた、私は元の湯船の中にいた。

 風呂から上がり、すぐさま母に聞けば、やはりそれはバスボムの力だと言う。
 そしてそれから私は毎日そのバスボムを使った。その度に別の温泉が私の前には現れた。

のどかな森の中、目の前の渓流や木々を眺め、枝葉や梢から漏れ入る光を浴びながら、水の流れや森を駆ける動物達の音に耳を澄ませ湯に浸かる。

 目の前に広がる一面の海、波の起伏をきらめかせる太陽はゆっくりと沈み、夕暮れに染まりゆく景色を眺め、湯の中を揺蕩う。

 視界いっぱいの白景色と、それでも尚降り続ける粉雪。ぽちゃんという水の音に横を見ると、湯の中に入ってくるのは数匹の猿だった。湯に浸かる猿の表情も、どこかほっとほころんでいる気がした。

 紅葉や新緑、富士に滝に夜空に散らばる星々など、その度にバスボムは私を、様々な景色と温泉に連れて行ってくれた。そして何日目かで気づいたのだが、広々とした温泉の奥には、いつも一組の男女が仲睦まじげに浸かっているのだった。

「あれって、お父さんとお母さんだよね?」
 そう言うと母は、恥ずかし気に頷く。
「あなたが産まれる前ね、二人で色々温泉めぐるのが趣味だったの。それで温泉饅頭を網に入れてね、しばらく温泉に浸けておくとできるのが、そのバスボム」
 それを聞いて流石に驚いた。まさかこのバスボムの原料が温泉饅頭だったとは。だが確かにその薄茶色や温泉マークは、それを聞けば納得だった。
「あなたが産まれたぐらいから、お父さんの鉄工所、経営が傾いて大変だったのよ。だからあんなに必死に働き続けてくれてて。けどそのせいであなたのこと、まともに旅行にも連れていけなかったでしょ?そのことずっと気にしてたから、そのバスボムもなかなか渡せなかったんだと思う。それまではいつか産まれる子供のためにって、温泉行く度に嬉しそうに一生懸命バスボム作ってたのに」

 私は湯船に浸かると、その最後の一つをゆっくりと湯に沈めた。
 そこは穏やかな木々や自然に囲まれた温泉だった。
 そして湯煙の奥にいるのは若き日の母と父だ。
 私はゆっくりと二人のもとへ近づき、その間のわずかな隙間に、自分の体を滑り込ませる。
 二人は私になど気づくよしもないが、私には見えているからそれでいい。父と母と私は横並びになり、その景色を眺めながら、のんびりと息をつき、湯に浸かる。
 時折聞こえる父と母の会話に耳を傾け、私はその最後の温泉をじっくりと味わう。目に映る景色や耳に入る音や声だけではなく、その全てを肌から吸収してしまうように思う存分思いきり。
 視界にうつるそれらは少しずつ揺らぎ始める。風景や温泉ごと父と母は湯煙に溶け始め、私の前から離れていく。
 朧げに消えゆく若い父の横顔に、私はありがとうと、届くわけもない小さな声でそっと呟く。すると穏やかな表情を浮かべた父はその瞬間、さらににこやかな笑顔を私に見せてくれた気がした。

 元の湯船に戻った頃、私の顔が濡れていたのは、勿論湯や湯煙のせいだろう。

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