ショートショート『人人人魚は月まで泳ぐ』
私は毎日六時間だけ人魚になる。一日のうちで十八時から二十四時まで。つまりは一日の四分の一を。なぜかと言えばそれは、私が人人人魚だからだ。
私の母方の祖母は人魚だったらしい。そして漁師の祖父と出会い、結婚し、私の母が産まれた。人魚の祖母と人間の祖父との間に産まれたから、私の母は人人魚ということになる。その後、人人魚の母は父と出会い、結婚し、私が産まれた。人人魚の母と人間の父との間に産まれたから、私は人人人魚ということになる。
私が人人人魚だということは家族以外知らない。夕方の六時までは普通の人間と変わらないわけだから、普通に学校にだって通い、今では立派な女子高生である。
私には毎日の楽しみがある。それは自分の体が人魚に変わるその六時間、ゆっくりと近くの海を泳ぐことだ。
波の音しか聞こえない静かな夜の海。ざぶんと潜ればその音すらも消えて、魚達も眠り始める中、私はどこまでも広がるこの海で一人きりになったような心地になる。多少の寂しさをそこに感じはするけれど、広大なこの海を独り占めしているようで気分が良い。身を浸すその冷たさはいつだって心地良く、海の底から時々夜空を見上げれば、海面の波の揺らぎによって天の星々は瞬いて見え、なんと贅沢な景色だろうと私は思う。
満月の日は、月に向かって泳いだ。勿論夜空に浮かぶ月に向かってではなく、海面にうつった月に向かってである。遠い海面に浮かんだ月からはこちらに向かい、海面上に光の線が伸びてきていて、幅のあるその光の道を辿って、私は泳げども泳げども辿り着けない月を目指して泳ぐのだった。
その日も私は十八時になると共に、浜から海へ入った。
いつもと変わらない夜の海を、いつものように泳いでいると、その時突然近くの海面で大きな水飛沫が上がった。それは何かが飛び込んできた音だった。
「誰か助けてぇ!」
途端明らかに溺れているのだろう人の声が聞こえる。正直助けるのは少し抵抗があった。自分が人魚であることを知られるのはマズい。浜辺を散歩する人々に見つからないよう、ある程度沖の方で泳いでいるつもりだったし、時々海釣りをする小舟の気配があれば隠れていた。だからあまりに突然に現れたこの人は一体どこから現れたのだろうとも思う。
様々な思いが自分の中で駆け巡りながらも、私の体は無意識に動き出していた。浜辺まで運んであげて、後は自分の姿が見られぬうちに逃げてしまえばいい。
溺れる人間を一人助けること自体は私にとってたやすかった。難なく溺れるその人を浜辺へと運んでやり、さぁ急いで私は姿をくらまそうと身を翻すも、その人の姿形を見て私は固まってしまった。それは私と同年代くらいの男の子だったが、彼の背中からは黒い翼が生えているのだった。
するとその彼の目が開き、私と彼とは思わず目が合ってしまった。数瞬顔を見た後、互いの視線が首から下へと走るのを感じる。彼の視線は私の尾ひれに、私の視線は彼の翼に。
「……人魚?」
「違います」
反射的にそう言ってしまった。けどまぁ私は人人人魚であって人魚ではないのだから、正確に言えば間違いではない。
「え、どう見ても人魚でしょ?」
「そういうあなたは何? 悪魔? 吸血鬼?」
「説明したってどうせ分からないよ」
「……なんなのよ、助けられた分際でその態度。てかまずは助けてくれてありがとうでしょ」
どこかツンとした彼のその様子に、私は思わず強めの言い方になってしまう。
すると彼は俯きながら小さな声で「ありがとう」と呟いた。
「じいちゃんが天狗なんだ」
「天狗?」
「そう。天狗のじいちゃんと人間のばあちゃんに産まれた俺の父さんが半天狗で、半天狗の父さんと人間の母さんに産まれたから、俺は半半天狗。一日の四分の一だけ羽が生えるんだよ」
「……嘘、おんなじ」
「おんなじ?」
「私もおばあちゃんが人魚で、だからお母さんが人人魚で、私は人人人魚。私も毎日六時間だけこうやって人魚になるの」
私達は顔を見合わせ、多分お互い驚きと喜びが半々くらいの表情をしていた。まさか自分と同じような特異な家系の人間と出会えるだなんて思わなかった。
「君はちゃんと人魚みたいに泳げるの?」
「当たり前じゃない。だから毎日こうやって泳いでるの」
「そっか羨ましいな。俺はちゃんとした天狗みたいには飛べないんだ」
「そうなの?」
「空に向かって飛び上がれても、そこからコントロールが効かないんだ。だから落ちても大丈夫なように海で練習しようと思ったんだけどさ、海に落ちてから、自分が泳げもしないこと思い出した」
「大まぬけじゃん」
「だよね」
そう言うと彼は無邪気な笑顔を見せ、それを見た私も思わず笑った。
「けど顔とかは全然天狗っぽくないね。天狗ってもっと鼻とか長いんじゃないの?」
「四分の一しか血流れてないから。ちょっと長いけど、これだとちょっと鼻が高いくらいのもんだよね」
「うん。それだとかっこいいだけだよ」
「……だよね」
照れたような顔をする彼に、少し遅れて私は自分が何とはなしに発した言葉の意味を理解する。
「ごめん、そういう意味じゃなくて! いや、そういう意味じゃないってのもおかしいか、そういう意味ではあるけれど、そういう意味では無いっていうか、」
しどろもどろに言い繕う私の顔はきっと真っ赤で、それこそ天狗のようだったかもしれない。対する彼の顔も僅かに赤い気がしたけど、それが半半天狗であるからなのか、それとも別の理由からかは分からなかった。
「あのさ、よかったらこれから、空飛ぶ練習付き合ってくれないかな?」
その日、父が仕事から早く帰ってきたので、二人で夕ご飯を食べることが出来た。私が海に行く時間もあるのでうちの夕食は五時過ぎであることが多い。
「あのさ」
「どうした?」
「お父さんはどうしてお母さんと結婚したの? 大変だとは思わなかった? 人人魚と結婚したら」
「んー」
お風呂場を覗くと母が水に浸かりながら本を読んでいた。
人人魚である母はお昼の十二時を境に人魚へと変わるため、早起きして午前中のうちに家事を片付け、昼からはこのお風呂に浸かっているのだった。人魚は常に水に浸かっていないといけないわけではないけれど、やっぱりそれが楽だし落ち着く。だからうちには母用のこのお風呂と、もう一つ私や父用のお風呂がある。
「お母さん?」
私の声に顔を上げた母は「なに?」と微笑む。
「今日は行かないの? 海」
「今日もこれから行くよ」
「最近なんか楽しそうだもんね」
何かを見透かしているようなその表情に、私は慌てて説明する。
「別に、最近自由に空を飛べない半半天狗の友達が出来てね、手伝ってるだけだよ。空に向かって飛ぶんだけど途中でぼちゃんと落ちちゃうから、その度に私が砂浜まで引き上げてあげるの」
「そっか。それで?」
「いや、ふと、ふとね、お父さんはお母さんとどうして結婚したんだろうって思って。それでお父さんに聞いたら、それはお母さんにも聞いてごらんって」
まるで準備でもしてたみたいに、母は私の質問の終わりとほとんど同時に口を開いた。
「完璧な人じゃなかったからじゃない?」
「え?」
「ほら、私ってお昼から人魚になるから、出来ないこと多いでしょ? けどある時気づいたのよ、あれ、だけどこの人も実は、色々出来ないこと多いぞって。だから結婚したんじゃないかな」
その答えにぽかんと驚く私に向かい、母は納得した?とまた微笑む。
「納得したし、びっくりした。さっきお父さんも同じこと言ってたよ」
晴れたような気分になった私は母に礼を言うと、そのまま家を飛び出して海に向かった。
今日も今日とて彼は海に落ちて、私に引き上げられてビチャビチャのまま落ち込んでいた。
「やっぱ飛べないんだな俺は」
「大丈夫飛べてるよ。空中でコントロールできないだけでしょ?」
「それを飛べないって言うんじゃん」
「全然違うよ。あのさ、一つ試してみたいんだけど」
私の指示に沿って、彼は私の背中をぎゅっと抱きしめる。その瞬間自分の心臓が激しく波打つのを感じたけれど、これはきっと期待に膨らむただの高揚感だ。
「これで飛んでみて! あとは私が泳ぐから!」
彼の翼が羽ばたく音が鳴り、体がふわりと浮いたかと思うと同時に、勢いよく私と彼は夜空に向かい飛び上がっていく。途端視界ごと体がぐらつき始める。気が付けば海面に向かい、落下し始めている。私は急いで尾びれを動かし始めた。水中と何も変わらない、空も海も同じことだと強く念じながら。
するとまたふわりという感覚が身を包む。それは尾びれの動きに体がついてくる感覚に違いなかった。水中と変わらず、私は空を泳いでいた。
「すごい! 飛べてる! てか空泳いでるよ俺達!」
耳元で叫ぶ彼の声に顔をしかめると、それに気づいたらしい彼は慌ててごめんと小声で謝る。なんだかそれがおかしくて私は声をあげて笑ってしまう。上へ右へ左へ、時々下に向かい滑空して、思い通りの方向に、私は、いや私達は、自由に泳いで回ることが出来ていた。
「飛べてるね」
「でもこれって飛べてることになんのかな? 俺羽動かしてるだけだし」
「そっちは空に向かって飛び上がれてるし、私は泳げてるし。お互いに出来ることしたらいいんだよ。それでお互いに出来ないことも、出来るようになるんだよ。それに私は陸地じゃ使い物にならないけど、あなたと一緒だったらこうやって自由に空飛べるんだよ」
「一日に六時間だけだけどね」
「一日に六時間だけだけど」
肌に擦れる冷たい夜の空気も、海と同じくらい心地良い。
「二十四時まであと何時間もあるけど、どうする? どこに向かって飛ぶ?」
私が問うと彼は、けど俺はその方向決められないんだよなと笑う。
じゃあ私行きたいところがあるんだと、夜空を見上げ私は尾びれをまた動かした。
今日の夜空には満月が浮かんでいる。
人人人魚の私と、半半天狗の彼は、その月に向かいどこまでも泳ぎ始めた。
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